ドーバーの港から汽車に乗り継ぎ、一行がロンドンに到着したのは夕刻のことだった。ヴィクトリア駅の巨大なアーチ型の屋根の下に立つと、蒸気機関車の白煙と人々の喧騒が渦巻いている。石炭の匂いと人いきれの中に、どこか懐かしいイングランドの空気を蒼一郎も感じ取ることができた。
「やはり、故郷は違うものですね」
明華が感嘆の声を上げる。確かに、これまで旅してきたどの港町とも異なる、重厚で威厳に満ちた雰囲気がロンドンには漂っていた。
しかし、マリアの表情は硬い。駅の喧騒の中でも、彼女だけが別世界にいるかのように見えた。手に持った小さな手提げ鞄を握り締め、時折深いため息をつく。
「マリア嬢ちゃん、大丈夫か?」
鯨岡が心配そうに声をかけた。
「ええ、ただ…三年ぶりなのです。父は私を許してくれるでしょうか」
蒼一郎は彼女の横に歩み寄った。
「あなたが成し遂げてきたことを、きっと理解してくれるはずです」
マリアは小さく頷いたが、不安の色は消えない。彼女の実家はロンドン西部のケンジントン地区にある。馬車を雇い、石畳の道を進むにつれ、街の風景は次第に優雅なものへと変わっていく。立派な邸宅が立ち並び、手入れの行き届いた庭園が目に入る。
やがて馬車は、アイビーに覆われた三階建ての美しい邸宅の前で止まった。クロフォード家の屋敷である。夕暮れの光に照らされた建物は、まさに英国貴族の品格を体現していた。
「ここが…」
明華が息を呑む。蒼一郎も、マリアの育った環境の格式の高さを改めて実感した。これほどの家柄の娘が、なぜ家を出て遠い日本まで旅したのか。
マリアは馬車から降りると、しばらく自宅を見上げていた。その横顔には、懐かしさと緊張が入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。
「皆さん、少しお待ちください。まず私一人で…」
そう言いかけた時、邸宅の正面扉が開いた。現れたのは白髪の老執事で、マリアの姿を認めると驚愕の表情を浮かべた。
「マリア様…!」
「ジェームズ、お久しぶりです」
マリアの声は震えていた。執事は慌てて屋敷の中へ戻り、やがて重厚な足音が聞こえてきた。
現れたのは五十代半ばと思われる、威厳に満ちた紳士だった。グレーの髪を丁寧に撫でつけ、濃紺のスーツに身を包んでいる。その瞳は娘と同じ深い青色で、今は驚きと安堵が入り混じった光を宿していた。
「マリア…本当に、マリアなのか」
ラルフ・クロフォード卿の声は低く、抑制されていたが、その奥に込められた感情の深さを蒼一郎は感じ取った。
「父様…ただいま戻りました」
マリアは深く頭を下げた。その姿に、蒼一郎の胸も締め付けられる思いがした。
父親は娘の前に歩み寄り、じっと見つめた後、突然彼女を力強く抱き締めた。
「心配したぞ、マリア。どれほど心配したことか」
「申し訳ございませんでした…」
マリアの頬に涙が伝っている。三年間の想いが、この一瞬に込められているように見えた。
やがて父親は娘から離れ、蒼一郎たちに気づいた。
「こちらの方々は?」
「私がお世話になった海堂商会の皆様です。父様、ご紹介させていただきます」
蒼一郎が一歩前に出た。
「海堂商会の海堂蒼一郎と申します。お嬢様には大変お世話になりました」
「私がマリアの父、ラルフ・クロフォードです。娘がお世話になり、ありがとうございました」
握手を交わしながら、クロフォード卿は蒼一郎を値踏みするような視線を向けた。しかし、それは敵意ではなく、娘を託した相手への自然な関心のように思われた。
「ぜひ邸内でお話を伺いたい。長旅でお疲れでしょう」
応接室に通された一行は、暖炉の暖かい光の中で寛いだ。メイドが運んできた紅茶の香りが、英国らしい落ち着いた雰囲気を演出している。
「マリア、まず聞かせてくれ。なぜあの日、何も言わずに家を出たのか」
父親の問いに、マリアは紅茶カップを両手で包み込むようにして持ちながら答えた。
「父様が決められた結婚に、どうしても納得できませんでした」
「ハロルド・ベンソンとの縁談のことか」
「はい。彼は立派な方だと思います。でも…私には夢があったのです」
マリアは蒼一郎たちを見回した。
「航海をして、世界中の海を見てみたい。自分の意志で人生を歩んでみたい。でも、女性というだけでそれは許されない。だから…」
「だから家を出た、と」
クロフォード卿の声に責める響きはなかった。むしろ、理解しようとする父親の愛情が感じられた。
「父様、私は後悔していません。日本で多くのことを学びました。商会の皆様と世界を巡り、自分にできることを見つけました」
マリアは立ち上がり、窓の外を見つめた。ロンドンの夜景が広がっている。
「でも同時に、家族の大切さも分かりました。父様や母様にご心配をおかけしたことを、心からお詫びします」
クロフォード卿は長いため息をついた。
「マリア、お前の気持ちが分からなかったわけではない。ただ、女性が一人で世界を旅することの危険を思うと…」
「父様」
マリアが振り返る。その瞳には、以前にはなかった自信と決意の光が宿っていた。
「私はもう、昔の私ではありません。海堂商会で働き、多くの困難を乗り越えてきました。女性だからこそできることもあることを学びました」
蒼一郎が口を開いた。
「クロフォード卿、お嬢様は我々商会にとって欠かせない存在です。航海術はもちろん、国際的な商談においても素晴らしい活躍をされています」
「そうそう」
鯨岡が頷く。
「マリア嬢ちゃんがいなけりゃ、俺たちはとっくに難破してるぜ」
「マリアさんの語学力と交渉力は本当に素晴らしいのです」
明華も加わった。父親は彼らの言葉に耳を傾け、時折頷いている。
「そうか…マリア、お前はそれほどまでに成長したのか」
マリアは父親の前に跪いた。
「父様、お願いがあります。私を海堂商会で働かせてください。もちろん、家族としての責任も果たします。でも、私の人生は私が決めたいのです」
部屋に静寂が流れた。暖炉の薪がパチパチと音を立てるだけが聞こえる。
やがてクロフォード卿が立ち上がり、娘の手を取った。
「マリア、お前の母親に会いなさい。彼女もずっと心配していた」
「母様は…」
「お前を愛している。それだけは確かだ」
父親の表情が柔らかくなった。
「そして私も、お前の幸せを望んでいる。たとえそれが私の思い描いていたものと違っても」
マリアの目に再び涙が浮かんだ。今度は安堵の涙だった。
「ありがとうございます、父様」
「ただし」
クロフォード卿が蒼一郎を見た。
「海堂さん、娘をお預けするからには、責任を持っていただきたい」
「もちろんです。マリアさんの安全と成長を、必ずお守りします」
蒼一郎の言葉に、父親は満足そうに頷いた。
その時、階段から足音が聞こえ、美しい女性が現れた。マリアの母親に違いない。娘を見つけると、声も出さずに駆け寄り、固く抱き締めた。
「マリア…私の愛しいマリア…」
母娘の再会を見つめながら、蒼一郎は胸の奥が温かくなるのを感じた。家族の絆とは、時間や距離を超えて存在するものなのだと実感した。
夜が更けゆく中、クロフォード家の応接室では、三年間の空白を埋めるように、様々な話に花が咲いた。マリアの冒険譚に両親は驚き、時には心配し、そして誇らしげに微笑んだ。
しかし蒼一郎は知っていた。これは新たな始まりに過ぎないことを。ロンドンでの再会は確かに感動的だったが、彼らの本当の冒険はまだ続くのだ。