プロヴァンスの陽光を背に受けて、我々は再び地中海を北上していた。モレル家の酒蔵で発見した第五の契約は、蒼一郎の胸の内で静かに燃える炎となっていた。残すところ二つ。七つの契約の完成が、確実に近づいている。
船は順風に恵まれ、三日後にはジブラルタル海峡を抜けて大西洋に出た。目指すはイングランド。マリアの故郷である。
甲板に立つマリアの横顔を見つめながら、私は彼女の心境を推し量ろうとしていた。男装で日本にやって来た時の颯爽とした面影は変わらないが、故郷が近づくにつれて、その表情には微かな翳りが宿っているようだった。
「マリア」
声をかけると、彼女は振り返った。海風が金色の髪を踊らせている。
「もうすぐですね、イングランド」
「ええ」短い返事だった。「父上には手紙を出してあります。突然の帰国になりますが」
「ご家族は、君がこうして商会の仕事に携わっていることをご存知なのかい」
マリアは少し考えてから答えた。
「部分的には。ただ、私が男装で船に乗り、世界中を駆け回っていることまでは知らないでしょう。クロフォード家の令嬢としては、随分と型破りな娘だと思われているはずです」
苦笑いを浮かべる彼女に、私は何と声をかけるべきか迷っていた。
船はビスケー湾を抜け、やがて英仏海峡に差し掛かった。ドーバーまであと数十海里というところで、空模様が怪しくなってきた。
「蒼一郎、様子がおかしいぞ」
鯨岡が眉をひそめながら空を見上げる。灰色の雲が低く垂れ込み、海面には薄い霧が立ち始めていた。
「海峡特有の霧ですね」マリアが口を開く。「この時期、よく発生します。視界が悪くなりそうです」
彼女の予感は的中した。夕刻になると霧は次第に濃くなり、やがて船首の先さえ見えないほどになった。鯨岡は慎重に舵を取り、船足を緩める。
「明華、霧笛の音を聞き逃すなよ。他の船との衝突が一番怖い」
「分かりました」
少年は船首に立ち、耳を澄ませている。霧の中から響く遠い汽笛の音が、不気味な唸り声のように聞こえた。
私たちは甲板に集まり、慎重に航行を続けた。コンパスと海図を頼りに進路を確認しながら、まさに手探りの航海である。
「この霧、まるで私の心の中のようです」
ふと、マリアが呟いた。
「どういう意味だい」
「故郷に帰るのが嬉しいような、怖いような。複雑な気持ちなのです」
霧に包まれた船上で、彼女は静かに胸の内を明かし始めた。
「私がロンドンを出たのは、窮屈な社交界の生活に耐えられなくなったからです。毎日が決まりきった儀礼の繰り返し。女性は結婚して良き妻、良き母となることだけを期待される。でも私は、もっと広い世界を見たかった」
霧笛が遠くで鳴る。その音が彼女の言葉に重なって、なんとも物悲しく響いた。
「日本で皆さんと出会い、商会の仕事に携わるようになって、私は初めて本当の自分を見つけることができました。でも、家族にとって私はきっと、理解しがたい娘でしょう」
「そんなことはない」私は言った。「君は素晴らしい航海士だし、商会にとって欠かせない仲間だ。君の家族もそれを理解してくれるはずだ」
「そう思いますか」
「ああ。君が築き上げてきたものは、決して無駄ではない」
霧はますます濃くなり、私たちの船は白い壁に包まれたような状態になった。鯨岡が注意深く速度を落とし、明華が定期的に霧笛を鳴らす。
「蒼一郎さん」明華が振り返る。「右舷の方から音が聞こえます。大型船のようです」
耳を澄ますと、確かに汽船の機関音が聞こえる。だんだん近づいてくるようだった。
「距離はどれくらいだ」
「二百メートル、いえ、もっと近いかもしれません」
緊張が走る。霧の中での衝突事故は、海難の中でも最も恐ろしいものの一つだ。
その時、霧の向こうから巨大な影がぼんやりと現れた。大型の郵船らしい。向こうも私たちの船に気づいたようで、警告の汽笛を鳴らしている。
「左舵!」鯨岡が叫ぶ。
船は急激に進路を変える。大型船も同様に回避行動を取ったようで、その巨体がゆっくりと私たちの前を通り過ぎていく。
「危なかった」明華が額の汗を拭う。
「英仏海峡は世界でも有数の難所だからな」鯨岡が言う。「霧の日は特に注意が必要だ」
私たちは再び慎重な航行を続けた。マリアは船首に立ち、故郷の海の音に耳を傾けている。
「マリア、君は変わったよ」私は彼女に歩み寄りながら言った。
「変わった?」
「ああ。最初に会った時の君は、確かに自由を求めていたが、どこか怒りに満ちていた。でも今の君は違う。本当の意味で強くなった」
彼女は振り返り、微笑んだ。
「皆さんと一緒に過ごした時間が、私を成長させてくれたのでしょう。特に蒼一郎さんの理念に触れて、私は自分なりの答えを見つけることができました」
「答え?」
「私は故郷に帰って、クロフォード家の娘として家族と向き合います。でも同時に、この商会の一員として世界を舞台に働き続けたい。その両方を諦める必要はないのだと、今は思えるのです」
霧の中で交わされた彼女の言葉は、深く私の心に刻まれた。
夜が更けても霧は晴れず、私たちは細心の注意を払いながら航行を続けた。やがて東の空が白み始めた頃、ついに霧が薄らぎ始める。
「見えてきたぞ!」明華が興奮して指差す。
霧の切れ間から、白い断崖が姿を現した。ドーバーの白い崖である。イングランドの玄関口が、朝靄の中に堂々とそびえていた。
「故郷ですね」マリアが深く息を吸う。「思っていたより、懐かしい気持ちです」
「第六の契約は、この国で見つかるのかもしれませんね」明華が言う。
「ああ」私は頷いた。「必ず見つけよう」
船はドーバー海峡を抜け、テムズ川の河口に向かっていく。霧は完全に晴れ、イングランドの緑豊かな丘陵地帯が眼前に広がった。
しかし、ロンドンの港に近づくにつれて、私の胸には新たな予感が芽生えていた。この国で私たちを待っているのは、果たして何なのか。マリアの家族は彼女をどう迎えるのか。そして、最後の二つの契約の手がかりは見つかるのか。
テムズ川の濁った水面を見つめながら、私は新たな冒険の始まりを感じていた。