地中海の蒼い海原を三日間航海した後、一行を乗せた船は南フランスの港町マルセイユに滑り込んだ。朝陽に照らされた古い港は、ナポリとはまた異なる風情を湛えていた。石造りの建物が立ち並ぶ街並みは歴史の重みを感じさせ、港には様々な国の船舶が停泊している。
「さすがは地中海有数の商業港だな」
蒼一郎は船の甲板に立ち、活気に満ちた港の様子を眺めながら呟いた。早朝にも関わらず、荷役の人々が忙しく働き回っている。魚の匂いと潮の香りが混じった港特有の空気が、故郷横浜を思い起こさせた。
「ここがマルセイユか。思っていたより大きな港だぜ」
鉄蔵が豪快に伸びをしながら言った。長い航海で体が凝り固まっているのだろう、首をゆっくりと回している。
マリアは既に男装に着替えを済ませ、いつものように颯爽とした姿で一行の先頭に立っていた。ナポリでの出来事を引きずっている様子はなく、むしろ新たな土地への期待に胸を躍らせているように見える。
「この港なら、きっと第五の契約の手がかりが見つかるはずです」
明華が希望に満ちた声で言った。彼の商人としての直感が、この港に何か重要なものがあることを告げているのかもしれない。
一行は船を下りると、まず港の税関で入国の手続きを済ませた。フランス語での会話は主にマリアが担当し、彼女の流暢な語学力が一行の助けとなった。
「まずは宿を確保しましょう」
マリアの提案で、港から少し離れた石畳の通りに面した小さな宿に部屋を取った。二階の窓からは地中海が一望でき、遠くに浮かぶ島影が美しいシルエットを描いていた。
荷物を置いた後、一行は早速街へと繰り出した。マルセイユの旧港地区は迷路のような細い路地が入り組んでおり、様々な商店や酒場が軒を連ねている。魚介類を売る市場では威勢の良い掛け声が飛び交い、異国情緒に溢れた光景が広がっていた。
「それにしても、第五の契約の手がかりをどこから探すべきか」
蒼一郎が歩きながら考え込んでいると、明華が振り返った。
「旦那、まずは地元の商人たちから情報を集めましょう。この港で古くから商売をしている人なら、何かご存じかもしれません」
「そうだな。特にワインの取引に関わる商人を探してみよう」
これまでの契約書の傾向から、地域の主要産業に関連したものが多いことが分かっていた。南フランスといえばワインの名産地である。きっと第五の契約もワイン貿易に関するものに違いない。
一行は港近くの商館街を歩き回り、ワイン商の看板を探した。いくつかの店を訪ねてみたが、なかなか有力な情報は得られなかった。
昼過ぎになった頃、古い石造りの建物に「ピエール・デュボワ商会」という看板を掲げた店を見つけた。店の前には大きなワイン樽が並べられ、芳醇な香りが漂っている。
「ここは歴史がありそうな店ですね」
マリアが建物を見上げながら言った。確かに、この建物は他の店よりも古く、格式を感じさせる造りになっている。
店の扉を開けると、薄暗い店内にワインの甘い香りが充満していた。奥から白髪混じりの初老の男性が現れる。恰幅の良い体格で、商人らしい人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃいませ。私がこの店の主人、ピエール・デュボワです。遠方からのお客様のようですが」
流暢な英語で話しかけてくれたおかげで、会話に不自由はなかった。蒼一郎は一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「日本から参りました、海堂蒼一郎と申します。実は、古い契約書について調べているのですが」
「契約書?」
ピエールの目に興味深そうな光が宿った。
「はい。私の祖父の代から続く契約で、このマルセイユに関連するものがあると聞いているのです」
蒼一郎がこれまでの経緯を簡単に説明すると、ピエールは頷きながら聞いていた。そして突然、手を叩いて声を上げる。
「もしかして、それは『七つの海の契約』のことではありませんか?」
一行は驚いて顔を見合わせた。まさか、こんなにも早く核心に迫る情報が得られるとは思っていなかった。
「ご存じなのですか?」
「ええ、もちろんです」
ピエールは店の奥へと一行を案内し、応接室のような小部屋に通した。壁には古い地図やワインの賞状が飾られ、商会の長い歴史を物語っている。
「実は、私の祖父もその契約に関わっていたのです。第五の契約は確かにワイン貿易に関するもので、日本の商人との間に結ばれたものでした」
「やはりそうでしたか」
蒼一郎の胸に期待が膨らんだ。ついに第五の契約の全貌が明らかになるかもしれない。
「その契約の内容とは?」
「南フランスの高品質ワインを日本に輸出し、代わりに日本の工芸品をヨーロッパに紹介するというものでした。当時としては画期的な取り決めだったのです」
ピエールは立ち上がると、壁に掛けられた古い肖像画を指差した。
「こちらが私の祖父、アントワーヌ・デュボワです。彼は日本の文化に深い敬意を抱いており、単なる商業取引を超えた文化交流を目指していました」
肖像画の男性は穏やかな表情を浮かべ、どこか蒼一郎の祖父と通じるものを感じさせた。
「その契約書は今でも?」
「ええ、大切に保管してあります。ただし」
ピエールの表情が少し曇った。
「最近、その契約書を狙っている怪しい人物がいるのです。数日前から、店の周りをうろついている男がいて」
鉄蔵が身を乗り出した。
「どんな奴だ?」
「黒いコートを着た痩せた男で、外国人のようでした。恐らく、あなた方と同じ目的でここに来たのでしょう」
一行の間に緊張が走った。ナポリの港で見かけた怪しい影が、ここまで追いかけてきたのだろうか。
「その契約書を拝見することは可能でしょうか?」
蒼一郎の問いに、ピエールは少し考えてから頷いた。
「もちろんです。しかし、安全のために今夜、私の自宅でお見せしましょう。ここでは人目につきすぎます」
約束を交わした一行は、夕方まで街を散策することにした。マルセイユの古い街並みを歩きながら、それぞれが第五の契約に思いを馳せていた。
夕刻、ピエールの自宅を訪ねた一行を待っていたのは、彼の温かな家族だった。妻のマドレーヌと娘のソフィーが手料理でもてなしてくれる。
「祖父の話をするのは久しぶりです」
食事を終えた後、ピエールは古い木箱を取り出した。
「この中に、第五の契約書が入っています」
箱を開けると、見慣れた羊皮紙の契約書が現れた。他の契約書と同じく、丁寧な筆致で日本語とフランス語が併記されている。
蒼一郎は感動に震えながら契約書を手に取った。祖父の筆跡を見つめていると、彼の思いが伝わってくるようだった。
「これで五つ目の契約書ですね」
マリアが感慨深げに呟いた。
「残すところ、あと二つ」
明華も興奮を隠せない様子だった。
しかし、その時だった。窓の外に人影が動くのを鉄蔵が見つける。
「おい、誰かいるぞ」
一同が窓に駆け寄ると、庭の向こうに黒いコートの人影が見えた。その人影は一瞬こちらを見つめると、素早く闇の中に消えていく。
「やはり追われているようですね」
ピエールが心配そうに言った。
「明日の朝一番で港を出ることにしましょう」
蒼一郎が決断を下した時、遠くから教会の鐘が夜更けを告げていた。第五の契約は手に入れたが、新たな危険が彼らを待ち受けているようだった。