地中海の朝陽がナポリ港を金色に染める頃、蒼一郎は潮音丸の甲板に立っていた。昨夜の嵐の傷跡は船体のあちこちに残っているものの、船大工たちが早朝から修理に取り掛かっている音が港に響いている。
「おはようございます、海堂さん」
振り返ると、いつものように男装に身を包んだマリアが甲板に現れた。しかし、その表情には昨日ロベルトと再会してからの複雑な感情が影を落としていた。
「おはよう、マリア。よく眠れたかい?」
「ええ、まあ」
彼女の返事は曖昧だった。蒼一郎は昨夜、マリアが甲板で一人佇んでいるのを見かけていたが、声をかけることはできなかった。ロベルトの存在が、彼らの間に見えない壁を作っているようだった。
そのとき、港の石畳を歩いてくる人影が見えた。昨日と同じ立派な服装に身を包んだロベルト・ヴィスコンティである。その手には白い薔薇の花束が握られていた。
「また来たな」鯨岡が低い声で呟いた。「諦めの悪い男だ」
明華も心配そうにマリアを見上げる。「マリアお姉さん、大丈夫?」
マリアは小さく頷いたが、その手は無意識に船の手すりを握りしめていた。
ロベルトは潮音丸の舷側まで来ると、流暢な英語で声をかけた。
「マリア、話がある。降りてきてくれないか」
しばらくの沈黙の後、マリアは静かに答えた。
「ここで話しましょう、ロベルト。隠すことは何もありません」
ロベルトは一瞬躊躇したが、やがて決意を固めたように薔薇の花束を高く掲げた。
「マリア、もう一度考え直してくれ。君はこんな危険な冒険を続ける必要はない。僕と一緒にイタリアに残れば、君にふさわしい生活を送ることができる。貴族としての地位も、安全な暮らしも、すべて手に入る」
マリアは静かに首を振った。
「ロベルト、あなたは私を理解していない。私が求めているのは地位や安全ではありません」
「では何だ?この極東の商人たちと危険を冒すことに、一体何の意味がある?」
その言葉に、蒼一郎の胸に怒りが湧いた。しかし、マリアが手を上げて制した。
「意味ですって?」マリアの声に強い意志が込められていた。「ロベルト、私はこの仲間たちと共に、本当の自分を見つけることができました。海堂さんは私を一人の人間として尊重してくれる。鯨岡さんは私を家族のように守ってくれる。明華は私を姉のように慕ってくれる。この絆こそが、私が長い間探し求めていたものなのです」
ロベルトの表情が曇る。「マリア、君は感傷に流されている。現実を見るんだ。彼らはいずれ君を故郷に帰すだろう。そのとき君はどうするつもりだ?」
「私の故郷は…」マリアは一度言葉を切り、仲間たちを見回した。「私の故郷は、もはや地図上の一点ではありません。この仲間たちと共にいる場所こそが、私の居場所なのです」
蒼一郎の心臓が高鳴った。マリアの言葉は、彼が密かに抱いていた希望を現実のものとしてくれるかもしれない。
ロベルトは最後の説得を試みた。「マリア、君は僕たちの婚約を忘れたのか?君の父上も僕たちの結婚を望んでいたはずだ」
「その婚約こそが、私がイングランドを離れた理由です」マリアの声に決意が響いた。「私は誰かに決められた人生ではなく、自分で選んだ道を歩みたい。そして今、私は自分の意志で選択します。私は仲間たちと共に日本へ帰り、私たちの夢を実現させたいのです」
ロベルトは愕然とした表情で花束を取り落とした。白い薔薇が石畳に散らばる。
「マリア…本当にそれが君の意志なのか?」
「はい」マリアは迷いなく答えた。「これが私の選択です」
ロベルトは長い間マリアを見つめていたが、やがて深いため息をついた。
「分かった。君の意志が固いなら、僕はもう引き止めない」彼は蒼一郎を見上げた。「海堂蒼一郎、君に頼みがある。マリアを守ってくれ。彼女は僕が愛した女性だ」
蒼一郎は真摯な目でロベルトを見つめた。「もちろんです。マリアは私たちの大切な仲間です」
ロベルトは複雑な表情で頷くと、踵を返して歩き去っていった。その後ろ姿は、失われた恋への諦めと、深い愛情の両方を物語っていた。
マリアは甲板の手すりにもたれかかり、遠ざかるロベルトの姿を見送った。その目には涙が光っていたが、それは悲しみよりもむしろ、解放感からくるものに見えた。
「マリア」蒼一郎が静かに声をかけた。「後悔はないかい?」
マリアは振り返ると、これまで見たことのないほど晴れやかな笑顔を見せた。
「全くありません。私は初めて、本当に自分の人生を生きていると感じています」
鯨岡が豪快に笑った。「そうこなくちゃな!俺たちゃあ家族だ。血は繋がっちゃいないが、心は繋がってる」
明華も嬉しそうに頷いた。「マリアお姉さんが一緒にいてくれて、僕は本当に嬉しいです」
蒼一郎は胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。マリアの選択は、彼らの絆をより深いものにしてくれたのだ。
「ありがとう、みなさん」マリアの声に感謝が込められていた。「私は皆さんと出会えて、本当に幸せです。これからも末永く、よろしくお願いします」
四人は甲板で輪になって立ち、互いの手を握り合った。地中海の青い海と空が彼らを祝福するかのように輝いている。
そのとき、港から船大工の頭領が大声で呼びかけた。
「修理完了だ!明日には出港できるぞ!」
蒼一郎は仲間たちを見回した。「それでは、日本への航海を再開しよう。私たちの冒険はまだ始まったばかりだ」
マリアが決意に満ちた目で頷く。「はい。私たちの本当の冒険を、今から始めましょう」
夕陽がナポリ湾を赤く染める中、潮音丸の四人は新たな決意を胸に、明日への準備を始めた。しかし、港の向こうの丘の上では、望遠鏡でこの様子を見つめる怪しい影があることを、彼らはまだ知らなかった。