猛烈な嵐を乗り越えた潮音丸は、陽光に輝くナポリ湾にその傷ついた姿を晒していた。港に入るなり、蒼一郎は見慣れた船影に眉を顰める。案の定、そこには黒崎商会の船が悠然と停泊していた。
「また、あいつらか」
鯨岡が舌打ちしながら呟く。しかし、今は船の修理が最優先だった。嵐で損傷した船体は一刻も早い手当てを必要としており、黒崎商会のことは後回しにするしかなかった。
ナポリ港の喧騒が四人を迎え入れる。イタリア語の響きが空気を彩り、地中海の真珠と呼ばれるこの港町特有の活気に満ちた雰囲気が漂っていた。蒼一郎は造船所の職人と修理について話し合い、李明華は必要な資材の調達に走り回る。
「三日は掛かりますね」
造船所の親方の言葉に、蒼一郎は仕方なく頷いた。これほどの損傷では、やむを得ない期間だった。
その時、港の向こうから聞こえてきた美しいテノールの歌声に、マリアの表情が凍り付いた。彼女の青い瞳が見開かれ、血の気が引いていく。
「マリア? どうした」
蒼一郎の声も耳に入らないように、マリアは歌声の方向を見詰めている。やがて人混みの中から現れた男性の姿を認めた瞬間、彼女の足がよろめいた。
「ロベルト......」
小さく漏れた名前を、蒼一郎は聞き逃さなかった。
近づいてくる男性は、典型的なイタリア人の美男子だった。黒い髪に褐色の肌、情熱的な瞳。年の頃は蒼一郎と同じくらいだろうか。その男性――ロベルトは、マリアを見つけるなり駆け寄ってきた。
「マリア! 本当に君だったのか!」
流暢な英語で叫びながら、ロベルトはマリアの両手を取った。マリアは困惑した表情で彼を見上げている。
「ロベルト......どうしてここに」
「君を探していたんだ。ロンドンを発った時から、ずっと」
二人の様子を見ていた蒼一郎の胸に、今まで感じたことのない感情が渦巻いた。それが嫉妬だと気づくまでに、少し時間が掛かった。
「紹介しましょう」
マリアが振り返る。その顔には複雑な表情が浮かんでいた。
「こちらはロベルト・ヴィスコンティ。イタリア貴族の息子で......私の、昔の恋人です」
蒼一郎は心臓が止まりそうになった。しかし、商人としての訓練が彼を支える。表情を変えることなく、紳士的に手を差し出した。
「海堂蒼一郎です。マリアさんには大変お世話になっております」
「ああ、君が」
ロベルトの瞳に一瞬、鋭い光が宿る。しかし、すぐに人懐っこい笑顔に戻った。
「マリアから手紙で聞いています。極東の冒険商人だと」
手紙? 蒼一郎は驚いた。マリアが彼と連絡を取り続けていたことを知らなかったのだ。
その夜、四人は港近くの宿に部屋を取った。夕食時、ロベルトも加わって賑やかな食事となったが、蒼一郎の心は晴れなかった。ロベルトとマリアが昔話に花を咲かせる様子を見ているのが辛い。
「覚えているかい、ヴェネツィアでの舞踏会のことを」
「ええ、あなたがゴンドラから運河に落ちた夜でしょう」
二人の笑い声が宿の食堂に響く。蒼一郎は黙々と料理に向かった。
「蒼一郎さん、大丈夫ですか?」
李明華が心配そうに声を掛ける。鯨岡も気遣うような視線を向けていた。
「ああ、少し疲れただけだ」
嘘だった。疲れているのではない。胸の奥で渦巻く感情をどう処理していいか分からないのだ。
翌日、蒼一郎は一人で港を歩いていた。潮音丸の修理は順調に進んでいる。しかし、心は重かった。
「蒼一郎」
振り返ると、マリアが立っていた。普段の男装ではなく、薄青色のドレスを身に纏っている。その美しさに、蒼一郎は息を呑んだ。
「話があります」
二人は港の突堤まで歩いた。地中海の風が頬を撫でていく。
「ロベルトのことで、混乱させてしまってごめんなさい」
マリアの声は小さかった。
「いえ、あなたの過去のことですから」
蒼一郎は努めて平静を装う。しかし、マリアは首を振った。
「違います。あなたには知る権利がある。私たちがこれまで共に歩んできたのですから」
マリアは遠くを見詰めながら語り始めた。
「ロベルトとは三年前、ロンドンの社交界で知り合いました。彼は当時、外交官としてイタリア大使館に勤めていた。私は彼の情熱的な愛に心を奪われ、結婚の約束まで交わしていました」
蒼一郎の胸が締め付けられる。
「でも、結婚式の前日、私は逃げ出したのです。彼の愛は確かに本物でした。でも、それは私を美しい鳥籠に閉じ込めるような愛だった。私が求めていた自由とは正反対の......」
「それで日本へ?」
「ええ。父の怒りを買い、勘当同然で」
マリアは振り返る。その瞳には涙が浮かんでいた。
「でも、あの選択は間違っていなかった。日本で、あなたたちと出会えたから」
蒼一郎の心に温かいものが流れ込む。しかし、同時に不安も募った。
「彼は君を連れ戻しに来たのですか?」
「分かりません。でも、昨夜、もう一度やり直そうと言われました」
その時、港の向こうから手を振る人影が見えた。ロベルトだった。彼は満面の笑みを浮かべて近づいてくる。
「マリア、美しい夕陽ですね。一緒に見ませんか?」
ロベルトはマリアの手を取ろうとする。しかし、マリアは一歩後ずさった。
「ロベルト、お話があります」
「何でも聞きましょう、愛しい人」
蒼一郎はその場を離れようとしたが、マリアに引き止められた。
「蒼一郎さんもいてください。これは私たち全員に関わることですから」
夕陽が地中海を赤く染める中、三人の間に重い沈黙が流れた。ロベルトの表情が次第に曇っていく。
「マリア、君はまさか......」
「私は日本に帰ります。この人たちと一緒に」
ロベルトの顔が歪んだ。
「この極東の商人のために、私との愛を捨てるというのか?」
「愛は捨てません。でも、私が本当に求めているものは、あなたとは歩めない道にあるのです」
ロベルトは蒼一郎を睨み付けた。その眼差しには、憎しみにも似た感情が宿っている。
「君が彼女を騙したのか? 純真な彼女を利用して」
「そうではありません」
蒼一郎は静かに答える。
「マリアさんは、誰よりも自分の意志を持っている女性です。誰かに騙されるような人ではない」
ロベルトは拳を握り締めた。しかし、マリアの毅然とした表情を見て、次第に肩を落としていく。
「君は......本当に変わったんだな」
夕陽が完全に沈み、港に灯りが點り始めた。ロベルトは最後にマリアを見詰め、小さくため息をついた。
「分かった。でも、もし君が心を変えることがあったら、いつでも帰っておいで。私は待っている」
彼は踵を返して歩き去っていく。その後ろ姿は、どこか寂しげだった。
マリアは蒼一郎を見上げる。
「これでよかったのでしょうか?」
「それは僕が決めることではありません。あなた自身が決めることです」
マリアは微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に、何か決意のようなものが宿っているのを蒼一郎は感じ取った。まるで、この別れが彼女にとって重要な転換点になるような......。
明日には修理が完了し、再び航海が始まる。しかし、蒼一郎の心には新たな不安が芽生えていた。マリアの心の奥で、何かが変わり始めているような気がしてならなかった。