アレクサンドリア港を出航してから三日が過ぎた。地中海の青い海原を行く商船「潮音丸」の船首で、蒼一郎は東の空を見つめていた。朝焼けが美しいはずの空に、不穏な暗雲が立ち込めている。
「この雲の色、ただ事じゃないな」
鯨岡鉄蔵が蒼一郎の隣に立ち、海風に髪をなびかせながら呟いた。元海賊の勘は、海の微細な変化を敏感に察知する。
「嵐でしょうか」
マリアが男装のまま二人に近づいてきた。エジプトで手に入れた第四の契約書は、彼女の懐に大切に仕舞われている。その表情にも、空模様への不安が浮かんでいた。
「間違いない。しかも相当な規模だ」鯨岡が顎髭を撫でながら言った。「地中海の嵐は短時間で猛烈になる。急いで準備せねば」
李明華も甲板に現れ、四人は船員たちと共に嵐への備えを始めた。帆を畳み、甲板上の荷物を固定し、船室の窓に板を打ち付ける。慣れ親しんだ太平洋とは違う、地中海特有の嵐の脅威を前に、全員の表情は真剣そのものだった。
しかし、嵐の到来は予想より早かった。
正午を過ぎた頃、空は一気に暗くなり、風が唸りを上げ始めた。最初は心地よかった海風が、やがて肌を切り裂くような冷たい突風へと変わっていく。
「全員、船室へ避難しろ!」
鯨岡の怒号が響く中、雨が激しく降り始めた。それは普通の雨ではなく、まるで天から投げつけられる槍のような激しさだった。
船は次第に大きく揺れ始め、波しぶきが甲板を洗い流していく。蒼一郎たちは船室に避難したものの、船体を叩きつける波音と風の咆哮が容赦なく響いてくる。
「こんな嵐は初めてです」明華が青ざめた顔で言った。商才に長けた彼も、自然の猛威の前では一人の少年に過ぎない。
マリアは窓の隙間から外を覗き込んだ。「波の高さが尋常ではありません。このままでは船が持ちません」
彼女の言葉通り、潮音丸は巨大な波に翻弄されていた。船首が空に向かって高く上がったかと思えば、次の瞬間には波の谷間に叩き落される。船体全体がきしみ、どこかで木材の折れる音がした。
「船長!」甲板員の一人が慌てて駆け込んできた。「メインマストにひびが入りました!」
鯨岡の顔が険しくなった。「どの程度だ?」
「まだ折れてはいませんが、このままでは危険です。それに、船底からも浸水が始まっています」
蒼一郎は立ち上がった。「私たちも手伝います」
「危険すぎる。ここにいろ」
「いえ、みんなで力を合わせなければ乗り切れません」
マリアも頷いた。「私も甲板に出ます。航海術は心得ていますから」
結局、全員が嵐の中に飛び出すことになった。甲板は滑りやすく、一歩間違えば海に投げ出される危険があったが、船を救うためには他に選択肢がなかった。
蒼一郎と明華は浸水を防ぐための作業に回り、マリアは鯨岡と共にマストの補強に取り掛かった。雨と波しぶきで視界は利かず、足元はおぼつかない。それでも全員が必死に作業を続けた。
「ロープをもっと強く結べ!」鯨岡が叫ぶ。
「こっちも手伝います!」マリアが返事をしながら、男性の船員たちに負けじと力を込める。
嵐はさらに激しさを増していく。巨大な波が船を襲うたび、潮音丸は軋みながらも持ちこたえようとしていた。蒼一郎は船底で浸水を塞ぎながら、祖父から聞いた海堂商会の創業時の話を思い出していた。初代当主も、きっとこのような困難を乗り越えてきたのだろう。
「蒼一郎さん、危ない!」
明華の声に振り返ると、巨大な波が船を覆おうとしていた。二人は必死に手すりにつかまり、波が去るのを待った。全身ずぶ濡れになりながらも、作業の手を止めるわけにはいかない。
そんな決死の作業が続いた後、奇跡的に風が弱くなり始めた。地中海の嵐は激しいが、その分去るのも早い。雲の切れ間から青空が顔を覗かせ、波も次第に穏やかになっていく。
全員が甲板に倒れ込んだ。疲労困憊だったが、船は何とか持ちこたえていた。
「やったな、みんな」鯨岡が荒い息をつきながら言った。
しかし、喜びも束の間だった。船体の損傷は予想以上に深刻で、このままヨーロッパの北まで航海を続けることは困難だった。
「最寄りの港に寄港して修理が必要だな」鯨岡が船体を点検しながら呟いた。
「ナポリが一番近いでしょうか」マリアが海図を広げながら言った。
「そうだな。ナポリで修理を頼もう」
夕陽が地中海を金色に染める中、潮音丸はナポリを目指した。思わぬ寄港となったが、蒼一郎は心のどこかで新たな展開を予感していた。七つの契約を巡る冒険は、また新たな局面を迎えようとしているのかもしれない。
ナポリの港が見えてきた時、蒼一郎は港に停泊している船の中に見覚えのある旗を発見した。それは黒崎商会の船だった。
「また黒崎の船がいる」明華が小さく呟いた。
「偶然でしょうか」マリアが眉をひそめた。
「いや」蒼一郎は首を振った。「きっと偶然ではない。彼らも同じものを追っているのだから」
美しい夕陽を背景に、ナポリの街並みが黄金色に輝いている。しかし、その美しさの陰に、新たな試練が待ち受けているのは確実だった。