夜半のカイロの街を抜け、一行は砂漠の向こうに聳える大ピラミッドへと向かった。月明かりが古代の石積みを青白く照らし、四千年の時を超えた神秘が漂っている。
「こんな夜中にピラミッドに忍び込むなんて、まるで盗賊みたいだな」
鯨岡が苦笑いを浮かべながら、巨大な石壁を見上げた。マリアは男装の姿で懐中時計を確認する。
「ファティマさんとの約束の時刻まで、あと十分ね」
「黒崎の手下がまだ近くにいる可能性もある。用心深く行こう」
蒼一郎の言葉に、明華が頷いた。少年の鋭い目が周囲を警戒している。
約束の場所で待つファティマは、古いランプを手に神妙な表情を浮かべていた。
「よく来てくれました。しかし危険は承知の上ですね。ピラミッドの内部は迷路のようになっています。一歩間違えば……」
「覚悟はできています。祖父の遺志を継ぐためにも、第四の契約書を見つけなければ」
蒼一郎の決意を確かめたファティマは、隠された入口へと一行を案内した。石の隙間から冷たい空気が流れ出し、歴史の重みが肌に触れるようだった。
ランプの明かりを頼りに狭い通路を進む。壁には古代エジプトの文字が刻まれ、王家の威光を今なお物語っている。やがて一行は小さな部屋に辿り着いた。
「ここです。この部屋の奥に、商人たちが秘密の契約を隠したと伝えられています」
ファティマが壁の一部を押すと、石が音もなく回転し、隠し部屋が現れた。そこには古い木箱が置かれ、中から巻物が見つかった。
「これが第四の契約書……」
蒼一郎が慎重に巻物を広げると、そこにはアラビア語、英語、そして日本語で記された文書があった。明華が震え声で読み上げる。
「『スエズ運河利用に関する契約書』……これは、運河の通行権に関する取り決めのようですね」
マリアが驚きの声を上げた。
「スエズ運河といえば、つい二十年前に開通したばかりの大運河よ。これがあれば、アジアとヨーロッパを結ぶ海路を格段に短縮できる」
「しかし、この契約書が作られたのは運河完成の遥か以前のはず。なぜ……?」
鯨岡の疑問に、ファティマが答えた。
「古い商人たちは先見の明がありました。いつの日かスエズ地峡に大運河が築かれることを予見し、その時のための権利を確保していたのです」
蒼一郎は契約書を見つめながら、深く考え込んだ。運河の利用権は確かに貴重だが、その維持には莫大な費用がかかる。現在の海堂商会にとって、果たして価値のある投資と言えるだろうか。
「蒼一郎さん、どうされますか?」
明華の問いに、蒼一郎はしばらく沈黙を保った。祖父の理念、父の意志、そして自分自身の信念。様々な思いが胸の内で交錯する。
「この契約を取得します。今すぐに利益をもたらさずとも、将来必ずや日本と世界を結ぶ重要な航路となるでしょう。祖父が目指した国際協調の理念を実現するためにも」
その時、遠くから足音が響いてきた。黒崎の手下が追いついてきたのか。ファティマが慌てた様子で立ち上がる。
「急ぎましょう。別の出口から脱出します」
一行は急いで契約書を回収し、ファティマの案内で秘密の通路を進んだ。やがて砂漠の反対側に抜け出ると、そこには馬車が待っていた。
「これでアレクサンドリアまで戻れます。しかし、黒崎たちもあきらめないでしょう」
「ありがとうございます、ファティマさん。あなたのおかげで貴重な契約を手に入れることができました」
蒼一郎が深く頭を下げると、老商人は微笑みを浮かべた。
「いえ、これも運命でしょう。古い契約が新しい時代の若者たちによって蘇る。きっと良い結果をもたらすはずです」
馬車は夜明け前のアレクサンドリアに向けて走り出した。車窓から見える砂漠の彼方に、薄っすらと朝の光が差し始めている。
「それにしても、運河の利用権とはな。確かに将来性はあるが……」
鯨岡が心配そうに呟く。マリアが契約書を検分しながら答えた。
「でも考えてみて。この運河があれば、ロンドンから香港まで、アフリカ回りより何週間も短縮できる。商業的価値は計り知れないわ」
「明華はどう思う?」
蒼一郎に問われた少年は、しばらく考えてから口を開いた。
「正直に申し上げれば、リスクの大きい投資です。しかし、蒼一郎さんの判断を信じます。長期的視野に立てば、必ずや海堂商会の発展に寄与するでしょう」
アレクサンドリアの港が見えてくると、蒼一郎は改めて決意を固めた。祖父が残した七つの契約は、単なる商業的利益を超えた、より大きな理念のためのものだったのかもしれない。
「次の目的地はどちらに?」
マリアの問いに、蒼一郎は海を見つめながら答えた。
「まずは一度横浜に戻り、この契約の意味をより深く調べてみましょう。そして……」
その時、港の向こうから黒い煙を上げる蒸気船が現れた。その船影を見た鯨岡が険しい表情になる。
「あの船……黒崎の所有する商船だ。やつら、先回りしていたのか」
蒼一郎の胸に緊張が走る。第四の契約を手に入れたものの、真の試練はこれからなのかもしれない。地中海の朝日が、新たな冒険の始まりを告げていた。