ペルシャ湾の青い海面が朝日に輝く中、蒼一郎たちを乗せた船はクウェートの港へと滑り込んでいった。バスラでの盗賊討伐から三日、ハキームの紹介状を携えて新たな地へと足を向けた一行の心は、まだ興奮の余韻に包まれていた。
「美しい港じゃないか」
鯨岡鉄蔵が甲板から身を乗り出し、感嘆の声を上げる。確かに、クウェートの港は独特の美しさを湛えていた。白い石造りの建物が立ち並び、その間を縫うように色とりどりの旗がはためいている。港には大小様々な船が停泊し、真珠採りの小舟から遠洋航海用の大型船まで、まさに海洋都市の賑わいを見せていた。
「真珠の都と呼ばれるだけのことはありますね」
マリア・クロフォードが望遠鏡を手に、港の様子を詳細に観察していた。男装の彼女は、この数ヶ月の航海ですっかり船乗りの風格を身につけていた。
蒼一郎は懐から取り出した羊皮紙に目を落とした。ハキームから託された第三の契約書。まだその全容は明らかになっていないが、真珠商人アブドゥルという人物が鍵を握っているという。
「蒼一郎さん、あそこを見てください」
李明華が指差す方向に視線を向けると、桟橋で大きな身振りを交えて何かを叫んでいる男の姿が見えた。白いターバンを巻き、豪華な刺繍の施された衣装に身を包んだその人物は、まさに典型的な真珠商人の風貌をしていた。
「あれがアブドゥルかもしれませんね」
船が接岸すると、その男は駆け寄ってきた。
「ハキーム殿の紹介状をお持ちの方々でしょうか。私がアブドゥル・イブン・マフムードです」
流暢なアラビア語で話しかけてきたアブドゥルに、明華が通訳として応対する。蒼一郎は丁寧に頭を下げ、日本からの商人として自己紹介した。
「ようこそクウェートへ。ハキーム殿からの手紙は既に受け取っております。皆様の勇敢な行いについても詳しく聞いております」
アブドゥルの歓迎ぶりは心からのもののようだった。一行は彼の案内で港を離れ、市街地の中心部にある豪華な商館へと向かった。
商館は想像以上に立派で、中庭には噴水があり、壁という壁に美しいタイルが施されていた。客間に通されると、アブドゥルは早速真珠の箱を持参してきた。
「まずは私の商売をご覧いただきましょう」
箱を開けると、そこには大小様々な真珠が美しく並んでいた。どれも完璧な球形で、真珠層の輝きは見る者の心を奪うほどだった。
「これは見事ですね」
蒼一郎が感嘆の声を上げると、アブドゥルは嬉しそうに微笑んだ。
「ペルシャ湾の真珠は世界一の品質を誇ります。しかし」
アブドゥルの表情が急に曇った。
「近年、この海に異変が起きているのです」
「異変?」
マリアが身を乗り出した。
「ええ。海の底から黒い液体が湧き出すようになったのです。最初は真珠採りの邪魔になるだけの厄介者だと思っていましたが」
アブドゥルは立ち上がり、棚から小さな壺を取り出した。
「これがその液体です」
壺の中身を見せられた一行は、その黒くて粘り気のある液体に困惑した。嗅いでみると、独特の匂いがする。
「これが石油というものなのか」
鯨岡が眉をひそめた。
「石油?」
「西洋では最近、この液体の価値が見直されているという話を聞いたことがあります」
マリアの言葉に、アブドゥルは大きくうなずいた。
「その通りです。実は、ハキーム殿から託された契約書の内容も、この石油に関するものなのです」
蒼一郎の心臓が高鳴った。ついに第三の契約の全容が明らかになるのか。
アブドゥルは奥の部屋から古い羊皮紙を持参してきた。それは確かに他の契約書と同じ材質、同じ筆跡で書かれていた。
「この契約書によると、将来この黒い液体が世界を変える力を持つ時が来る。その時、東洋と西洋が手を取り合い、この資源を平和のために用いる契約を結ぶ、と書かれています」
明華が契約書を読み上げながら翻訳すると、一行は驚きを隠せなかった。
「しかし、なぜ祖父がそんな未来を予見できたのでしょうか」
蒼一郎の疑問に、アブドゥルは深いため息をついた。
「海堂商会の初代当主は、ただの商人ではありませんでした。彼は世界中を旅し、各地の賢者たちと交流を重ねていました。この地でも、古い預言書を研究する学者たちと親交がありました」
「預言書?」
「ええ。古代から伝わる書物には、海の底から湧き出る黒い血が世界の運命を左右すると記されているのです」
夕日が商館の中庭を染める中、アブドゥルは続けた。
「初代当主は、その預言が真実になる日を見据え、混乱ではなく平和のためにこの力を使う道筋を作ろうとしていたのです」
蒼一郎は祖父の深謀遠慮に改めて感服した。石油という資源の価値を、これほど早い時期から予見していたとは。
「では、この契約を発動させるには何が必要なのでしょうか」
「七つの契約がすべて揃った時、世界各地の港で同時に平和条約を結ぶ儀式を行う必要があります。その時初めて、この石油の力を建設的に活用する国際的な枠組みができあがるのです」
一行は言葉を失った。祖父の構想は、想像をはるかに超える壮大なものだった。
その夜、アブドゥルの商館で歓待を受けた一行は、それぞれが複雑な心境でいた。真珠の美しさに魅せられながらも、海底に眠る石油の潜在的な力について考えを巡らせていた。
翌朝、アブドゥルは一行を港の特別な場所へと案内した。
「ここで実際に石油が湧き出している現場をご覧いただけます」
確かに、海面に黒い膜が浮いている箇所があった。真珠採りの海女たちも、その付近は避けて作業をしているようだった。
「将来、この液体が世界中の船を動かし、機械を動かす力になるというのですね」
マリアの呟きに、アブドゥルは力強くうなずいた。
「そして、その力が争いの種となるか平和の礎となるかは、皆様のような志ある人々の手にかかっているのです」
蒼一郎は第三の契約書を大切に懐にしまった。残る四つの契約を集め、祖父の理想を現実のものとしなければならない。その責任の重さを、今更ながら実感していた。
「次の契約はどこにあるのでしょうか」
「エチオピアの高原地帯に、コーヒー商人として名高いヨハネスという男がいます。彼が第四の契約の守り手です」
紅海を越え、アフリカ大陸へ。旅路はますます険しくなりそうだったが、蒼一郎たちの決意は揺らがなかった。
クウェートを発つ日の朝、アブドゥルは桟橋で一行を見送った。
「皆様の旅路に神の加護がありますように。そして、いつの日か石油が本当に世界平和のために使われる日が来ることを祈っています」
船が港を離れる時、蒼一郎は振り返ってクウェートの美しい街並みを眺めた。真珠の都の海底に眠る黒い液体が、いつか世界を変える日が来るのだろうか。
その答えを求めて、一行は再び大海原へと船出していった。