ボンベイの港に停泊した蒼一郎たちの船は、インド洋の嵐で受けた傷を随所に残していた。マストには応急処置の綱が巻かれ、甲板の一部には新しい板が継ぎ当てられている。それでも無事に辿り着けたのは、まさにマリアの卓越した操船技術と四人の結束の賜物だった。
「ようやく着いたな」
鯨岡鉄蔵が大きく伸びをしながら、港の喧騒に目を細めた。ボンベイの港は横浜にも劣らぬ国際都市の様相を呈しており、様々な国の商人や船乗りが行き交っている。香辛料の甘い匂いが海風に乗って漂い、異国情緒に満ちた活気が四人を包み込んだ。
「第二の契約の手がかりを探すには、まずこの街の商人たちと話をする必要がありますね」
蒼一郎が懐から祖父の日記を取り出し、ボンベイに関する記述を再度確認した。そこには「香辛料の道を知る者が、次なる扉を開く鍵を持つ」という謎めいた一文があった。
「香辛料といえば、この街の主要な商品ですからね。手がかりは必ずあるはずです」
明華が流暢な英語で港の労働者に話しかけ、情報収集を始めた。その語学力は相変わらず頼もしく、短時間で街の有力な香辛料商の名前をいくつか聞き出してきた。
「プリヤー・シャルマという女性商人が最も有名だそうです。彼女なら何か知っているかもしれません」
マリアが地図を広げながら、明華から得た情報を整理した。「彼女の商会は街の中心部にあるとのことです。まずはそこを訪ねてみましょう」
四人は船を港に係留し、修理を現地の職人に依頼した後、ボンベイの街へと向かった。石造りの建物が立ち並ぶ街並みは、英国統治下の影響を色濃く受けながらも、インド独特の文化が随所に息づいている。色とりどりのサリーに身を包んだ女性たちや、ターバンを巻いた商人たちが往来を埋め尽くし、どこからともなく聞こえてくるシタールの音色が異国の情緒を掻き立てた。
プリヤー・シャルマの商会は、想像以上に立派な建物だった。三階建ての石造りで、一階部分は香辛料の店舗となっており、上階は事務所と住居を兼ねているようだった。店先には色とりどりのスパイスが山と積まれ、カルダモン、クローブ、シナモンの豊かな香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
店の奥から現れたのは、三十代半ばと思われる美しい女性だった。深い茶色の瞳に意志の強さを宿し、上質な絹のサリーを優雅に纏っている。これがプリヤー・シャルマその人に違いなかった。
「私たちは日本から参りました海堂商会の者です。お時間をいただけますでしょうか」
蒼一郎が丁寧に挨拶すると、プリヤーは興味深そうに四人を見回した。
「日本の方々ですか。珍しいですね。どのようなご用件でしょう」
彼女の英語は流暢で、教養の高さを窺わせた。蒼一郎は祖父の日記の該当部分を見せながら、第二の契約について尋ねた。しかし、プリヤーの表情が一変したのは、その文章を読んだ瞬間だった。
「これは…どちらで手に入れられたのですか」
声に緊張が走り、彼女は蒼一郎を鋭く見詰めた。
「私の祖父、海堂源左衛門の遺品です。何かご存知なのですか」
プリヤーは長い間沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「源左衛門様のお孫さんでしたか。お懐かしい…私の祖母がお世話になったことがあります」
四人の期待が高まった。ついに手がかりを掴めそうだった。
「しかし、申し訳ございませんが、簡単にはお教えできません」
プリヤーの次の言葉に、一同は困惑した。
「と申しますと?」
「その契約に関する情報は、我が家に代々伝わる秘密です。源左衛門様のお孫さんとはいえ、あなた方がその秘密を託すに足る方々かどうか、まず確かめさせていただく必要があります」
マリアが前に出た。「どのような試練でも受けて立ちます。私たちの真意をお分かりいただけるよう努力いたします」
プリヤーは微笑んだが、その笑みには計り知れない深さがあった。
「試練というほど大袈裟なものではありません。ただ、商人として一つの取引をしていただきたいのです」
鉄蔵が身を乗り出した。「取引とは?」
「実は、私どもが大切にしている香辛料の畑が、最近盗賊団に狙われております。彼らは地元の有力者と結託しており、正攻法では太刀打ちできません。もしあなた方がこの問題を解決してくださるなら、契約に関する情報をお教えしましょう」
明華が眉をひそめた。「盗賊団との戦いですか?危険すぎませんか」
「戦えとは申しません。商人らしく、知恵で解決していただきたいのです。源左衛門様も、かつて同じような問題を見事に解決してくださいました」
プリヤーの瞳に祖父への敬慕の念が浮かんでいるのを見て、蒼一郎は決意を固めた。
「分かりました。お引き受けいたします」
「ありがとうございます。詳しい事情は明日、畑にご案内した時にお話しします。今日はゆっくりお休みください」
宿を紹介してもらい、四人は一日の疲れを癒した。しかし蒼一郎の心は複雑だった。期待していた情報はすぐには得られず、新たな困難が待ち受けている。それでも、これも祖父が歩んだ道の一部なのかもしれない。
翌朝、四人はプリヤーと共に郊外の香辛料畑へ向かった。馬車に揺られながら、彼女から詳しい事情を聞いた。
「盗賊団の頭目はラジェシュという男で、地元の領主と繋がりがあります。彼らは法外な『通行税』を要求し、従わない商人の畑を荒らしまわっているのです」
畑に到着すると、その惨状は想像以上だった。美しく整備されていたであろう香辛料畑は荒らされ、倉庫の扉は破られていた。しかし不思議なことに、作物そのものは意外に損害が少ない。
「まるで脅しのためだけの破壊行為ですね」蒼一郎が観察した。
「その通りです。彼らの目的は畑を潰すことではなく、屈服させることなのです」
その時、遠くから馬蹄の音が響いてきた。十数人の男たちが馬に乗ってこちらに向かってくる。
「ラジェシュたちです」プリヤーが緊張した声で言った。
蒼一郎は仲間たちと視線を交わした。いよいよ正念場が来たようだった。果たして彼らは知恵でこの難局を乗り切ることができるのか。そして第二の契約の秘密に辿り着けるのか。
盗賊団の一行が近づいてくる中、蒼一郎の胸に祖父の教えが蘇った。「真の商人は、剣ではなく言葉で道を切り開く」