シンガポールを出港して三日が過ぎた。蒼一郎は甲板に立ち、水平線の彼方に見える暗雲を見つめていた。空気が重く湿り、風の向きが不規則に変わっている。
「嵐が来るな」
鯨岡鉄蔵が蒼一郎の隣に立った。その表情は普段の豪快さとは打って変わって、険しい。
「どの程度の規模でしょうか」
「分からん。だが、この匂いは尋常じゃない。インド洋の嵐は太平洋とは違う。一度巻き込まれたら、運頼みになる」
マリアがマストから飛び降りて駆け寄ってきた。
「風向きが急激に変わっています。気圧も下がり続けている。少なくとも六時間以内には本格的な嵐に遭遇するでしょう」
蒼一郎は頷いた。彼女の予測は常に正確だった。
「明華はどこだ」
「船室で海図を調べています」明華の声が船室から聞こえた。「最寄りの港まで半日はかかります。嵐を避けるには遅すぎます」
鉄蔵が舌打ちした。
「黒崎の野郎に遭ったのが運の尽きか。あそこで時間を食わなければ」
「今更言っても始まりません」蒼一郎が静かに言った。「我々にできることをしましょう」
その時、船が大きく揺れた。波がこれまでとは違う動きを見せ始めている。
「総員、嵐対策だ!」鉄蔵が怒鳴った。
マリアが船首に向かい、帆の調整を始める。蒼一郎と明華は船室の荷物を固定し、水漏れに備えた。鉄蔵は舵を握り、来たるべき嵐に備えて船の向きを調整している。
最初の雨粒が頬を打った時、蒼一郎は空を見上げた。雲が渦を巻き、異様な速さで頭上に迫っている。
「来るぞ!」
鉄蔵の声と同時に、風が唸りを上げた。
瞬く間に穏やかだった海面が一変する。波は山のように高く立ち上がり、船を翻弄し始めた。雨は横殴りに降り注ぎ、視界を奪う。
「マリア!前帆を畳め!」
「了解!」
マリアがロープにぶら下がりながら、器用に帆を操作する。しかし、風の力は想像以上で、彼女の小柄な体が宙に舞い上がりそうになる。
「危ない!」
蒼一郎が駆け寄り、マリアの体を支えた。二人でロープを引き、なんとか前帆を畳むことに成功する。
「ありがとう!」マリアが叫んだが、風の音でかき消されそうになる。
船は巨大な波に持ち上げられ、次の瞬間、谷底に叩き落とされた。胃が浮き上がるような感覚と共に、蒼一郎は甲板に叩きつけられる。
「蒼一郎さん!」明華の声が聞こえた。「船底に浸水です!」
最悪の事態だった。このまま水が溜まり続ければ、船は沈む。
「俺が見てくる!明華、舵を手伝え!」
鉄蔵が船室に向かおうとした時、さらに巨大な波が襲いかかった。船体が大きくきしみ、今にも折れそうな音を立てる。
「だめです!このままでは船がばらばらに!」明華が青ざめて叫んだ。
その時、マリアが立ち上がった。髪は雨に濡れ、服は破れているが、その目には確固たる意志が宿っている。
「私に任せてください!」
彼女は舵輪に向かうと、鉄蔵から舵を受け取った。
「お嬢ちゃん、これは遊びじゃないんだぞ!」
「分かっています!でも、私はクロフォード家の人間です。祖父も父も、北大西洋の嵐を何度も乗り越えてきました。この程度で負けるわけにはいきません!」
マリアの声には、これまで聞いたことのない力強さがあった。彼女は嵐の動きを読み、波のリズムに合わせて舵を切る。
「鉄蔵さん、帆の角度を十度右に!蒼一郎さん、錨の準備を!明華、浸水箇所を塞いで!」
的確な指示が飛ぶ。三人は迷わずマリアの命令に従った。
船は再び大波に襲われたが、今度は破壊的な衝撃を受けることなく、波の頂上を滑るように進む。マリアが絶妙なタイミングで舵を切ったのだ。
「すげぇ」鉄蔵が感嘆の声を上げた。「本当にお嬢様だったのか」
しかし、嵐はまだ終わらない。むしろ激しさを増している。
「みんな!」蒼一郎が叫んだ。「今、私たちは生死を共にしています。私は皆さんを信じています。きっと、この嵐を乗り越えられる!」
その言葉が、四人の心を一つに結んだ。
明華は船底での作業に集中し、鉄蔵は長年の経験を活かして帆を操る。マリアは嵐の息づかいを読み取り、蒼一郎は全体を見渡して的確な判断を下す。
それぞれが最高の力を発揮し、見事なチームワークを見せた。
嵐が最高潮に達した時、船は十メートルを超える波の壁に直面した。普通なら確実に転覆する高さだった。
「これが正念場だ」マリアが呟いた。
彼女は舵を大きく切り、船首を波に向けた。船は垂直に近い角度で波を駆け上がる。
頂上で一瞬、船が宙に浮いたような感覚になった。下を見ると、深い海の谷が口を開けている。
「うわあああ!」
明華の悲鳴と共に、船は再び海面に叩きつけられた。しかし、船体は持ちこたえた。
気がつくと、風の音が弱くなっている。雨も小降りになり、波の高さも次第に低くなっていく。
「やった」蒼一郎が力なく甲板に座り込んだ。「生きている」
四人は互いを見つめ合い、そして笑い出した。死の恐怖を共に乗り越えた者だけが味わえる、深い喜びだった。
「マリア、君の操船技術は見事だった」蒼一郎が心から言った。
「みんながいてくれたからです」マリアも微笑んだ。「一人では決してできませんでした」
鉄蔵が蒼一郎の肩を叩いた。
「坊っちゃん、あんたの父親と同じ匂いがしてきたぜ。本当の仲間ってのが何か、分かったんじゃないか」
明華も頷いた。
「僕も故郷を離れてからずっと一人でした。でも今は違います。僕たちは本当の仲間ですね」
蒼一郎は空を見上げた。雲の切れ間から、夕日が顔を覗かせている。
「ええ。そして、この絆こそが、祖父が築こうとした世界への第一歩かもしれません」
船は静かになった海面を進む。ボンベイはもうすぐだった。しかし蒼一郎たちは知らなかった。この嵐を利用して、黒崎慎太郎の船が別のルートでボンベイに先回りしていることを。
第二の契約を巡る真の戦いは、これから始まろうとしていた。