夜明け前の薄闇の中、シンガポール港は既に慌ただしい気配に包まれていた。蒼一郎たちは陳老人の屋敷から急いで港へと向かったが、その足音さえも重く響く石畳に、不穏な空気が漂っているのを感じ取っていた。

「まずい、もう遅いかもしれん」

 鯨岡が低く呟いた。港の向こうに、見慣れない大型蒸気船が停泊している。船体に刻まれた「帝国商事」の文字が、朝もやの中でも鮮明に読み取れた。

 マリアが双眼鏡を取り出し、船の様子を確認する。

「旗艦級の船ね。相当な資本を投じている。北条という男、本気で来たようね」

「いや、待て」

 蒼一郎が彼女の肩に手を置いた。双眼鏡を受け取り、船をより詳しく観察する。甲板に立つ人影が見えた。年配の男性-おそらくそれが北条辰巳だろう-の隣に、若い男が立っている。

「あの若い男は誰だ?」

 明華が首を傾げる。「北条の息子でしょうか?」

「いや、違う」蒼一郎の声に緊張が走った。「あの立ち振る舞い、あれは部下ではない。むしろ…」

 その時、港の向こうから小舟が一艘、こちらに向かってくるのが見えた。朝日が海面を照らし始める中、その舟には三人の人影があった。

「来るぞ」鯨岡が手を腰の刀に添える。

 やがて舟は岸壁に着き、三人の男が上がってきた。先頭に立つのは確かに北条辰巳だった。威厳のある初老の男で、西洋風の黒いスーツに身を包んでいる。その後ろに従う二人の部下も、いかにも商人然とした風貌だった。

 だが蒼一郎の視線は、北条の隣を歩く若い男に釘付けになった。年の頃は自分と同じくらい、いや、もう少し若いかもしれない。整った顔立ちに鋭い眼光を宿し、その物腰からは北条に劣らぬ威厳が感じられた。

「お待ちしておりました、海堂蒼一郎さん」

 北条が近づいてきて、丁寧に頭を下げた。しかしその目は冷たく光っている。

「そして、こちらが我が帝国商事の若き総帥、黒崎慎太郎です」

 蒼一郎の心臓が跳ね上がった。総帥? 北条ではなく、この若い男が帝国商事の頂点に立つ人物なのか。

 黒崎慎太郎と名乗った男が一歩前に出た。その瞬間、蒼一郎は言いようのない圧迫感を覚えた。同世代とは思えない落ち着きと、底知れぬ野心が彼の全身から放射されている。

「初めまして、海堂さん。噂はかねがね伺っております」

 黒崎の声は穏やかだったが、その奥に鋼のような意志を感じさせた。蒼一郎は直感した。この男こそが真の敵なのだと。

「黒崎…慎太郎」蒼一郎は名前を反芻するように呟いた。「帝国商事の総帥とは、北条さんではなかったのですね」

「北条は私の右腕です」黒崎が微笑んだ。しかしその笑みに温かみはない。「私は若輩ながら、父の跡を継いでこの商会を率いております。そして今、大変興味深い話を聞きました」

 黒崎の視線が蒼一郎たち四人を順番に見回した。

「七つの契約。そして、あなたの父君である龍之介さんが遺したという理想」

 蒼一郎の背筋に冷たいものが走った。どこまで知っているのだろうか。

「何のことか分かりませんが」

「とぼけても無駄です」黒崎が手を上げると、背後から十数人の男たちが現れた。皆、商人の格好をしているが、その目つきと歩き方から、ただの商人ではないことは明らかだった。

 鯨岡が反射的に刀の柄を握る。マリアも懐に手を伸ばした。明華は蒼一郎の陰に身を隠す。

「おやおや、物騒ですね」黒崎が愉快そうに笑った。「私はただ、お話がしたいだけなのですが」

「話?」

「ええ。実は私も、七つの契約に大変興味を持っているのです」黒崎の目が鋭く光った。「あれは素晴らしい理念ですね。平等貿易、国際協調…まさに理想的です」

 蒼一郎は困惑した。この男は何を言っているのだろうか。

「しかし」黒崎の口調が変わった。「理念だけでは世界は変わりません。必要なのは力です。圧倒的な力によって、その理念を実現することなのです」

「力?」

「武力とは申しません。しかし、経済的支配力、政治的影響力、そして必要とあらば軍事的圧力も含めて、あらゆる手段を用いて理想を実現する。それが真の理想主義者というものでしょう」

 蒼一郎は慄然とした。この男は確かに七つの契約の理念を理解している。しかし、その実現方法が根本的に違っているのだ。

「つまり、あなたは力によって平和を作ろうというのですか」

「その通りです」黒崎が頷いた。「混沌とした世界に秩序をもたらすには、誰かが頂点に立たねばなりません。そしてその誰かが、正しい理念を持っていればよいのです」

 マリアが前に出た。「それは支配よ。平等とは正反対のことじゃない」

 黒崎が彼女を見つめる。「美しい理想論ですね、マリア嬢。しかし現実はそう甘くはありません。あなたの故国イギリスを見てご覧なさい。彼らは武力と経済力で世界に秩序をもたらしている。私はそれを、より崇高な理念のもとで行おうというのです」

「それは違う」蒼一郎が声を張り上げた。「父が目指していたのは、そんな支配による平和ではない。互いを尊重し、対等な立場で協力し合う世界だったはずです」

「龍之介さんは理想家でした」黒崎の声に、僅かな哀れみが混じった。「しかし彼の方法では、いつまで経っても理想は実現されません。見てごらんなさい、彼は結局、その理想を完成させることができずに姿を消してしまった。私は彼ができなかったことを、より確実な方法で成し遂げようというのです」

 蒼一郎の胸に怒りが込み上げた。この男は父を愚か者扱いしている。

「父は逃げたわけではありません。七つの契約を守るために…」

「分かっています」黒崎が遮った。「そして今、その契約は私たちのような次世代の手に委ねられている。問題は、誰がそれを完成させるかです」

 黒崎が一歩前に出る。朝日が彼の顔を照らし、その表情がより鮮明に見えた。そこには確信に満ちた光があった。

「海堂蒼一郎、あなたに提案があります。私と手を組みませんか」

 一同が息を呑んだ。

「手を組む?」

「そうです。あなたの理想と私の力を合わせれば、七つの契約は必ず完成します。そして世界に真の平和がもたらされるでしょう」

 蒼一郎は迷った。この男の言葉には一理ある。確かに理想だけでは世界は変わらないかもしれない。しかし…

「お断りします」

 蒼一郎の返事は、自分でも驚くほどはっきりとしていた。

 黒崎の表情が変わった。失望とも、怒りともつかない影が差す。

「なぜです? 目指すところは同じではありませんか」

「目指すところは同じでも、道筋が違います」蒼一郎は真っ直ぐに黒崎を見つめた。「あなたの方法では、結局のところ強者による弱者の支配にしかならない。それは父が…私たちが求める世界とは正反対です」

 黒崎がため息をついた。「残念です。では、仕方ありませんね」

 彼が手を上げると、背後の男たちが一歩前に出た。

「力づくということですか」鯨岡が刀を抜こうとする。

「いえいえ、ここで争うつもりはありません」黒崎が手を振った。「ただ、これで私たちは競争相手ということになります。七つの契約を巡る、正々堂々たる競争です」

 黒崎が振り返る。「私は必ず七つの契約を完成させます。そして私の方法こそが正しいことを証明してみせましょう」

 男たちが引き上げていく。最後に黒崎が振り返った。

「海堂蒼一郎、あなたという好敵手を得られて光栄です。今度お会いするのは、どちらかが七つの契約を手に入れた時になるでしょう」

 朝の光の中、黒崎慎太郎の姿が遠ざかっていく。蒼一郎は拳を握りしめた。強大な敵が現れた。しかし同時に、自分の信念がより明確になったことも感じていた。

 競争は始まったのだ。

潮騒の商会と七つの海

16

ライバルの正体

潮見 航

2026-04-05

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第16話 ライバルの正体 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版