蒼一郎たちが陳老人から聞いた話の衝撃は、夜が更けても薄れることはなかった。シンガポールの街に降りた夜の静寂の中で、四人は小さな茶館の二階で膝を突き合わせていた。
「つまり、父上が結んだ第一の契約は、まだ有効になっていないということですね」
蒼一郎の言葉に、陳老人は深く頷いた。老人の皺に刻まれた顔には、長年の秘密を打ち明けた安堵と、同時に新たな心配の色が浮かんでいた。
「その通りじゃ。七つの契約は一つとして欠けてはならぬ。全てが揃って初めて、創始者たちが夢見た理想郷への扉が開かれる」
マリアが身を乗り出した。「七つの契約とは、具体的にはどのような内容なのでしょうか?」
陳老人は懐から古い羊皮紙を取り出した。それは蒼一郎が横浜で見つけたものと同じような質感だったが、こちらにはより詳細な文字が書き込まれていた。
「第一の契約は、わしらがここシンガポールで結んだ香辛料の平等取引。第二の契約は上海での茶葉と絹、第三はマニラでの砂糖、第四はボンベイでの綿花、第五はアレクサンドリアでの香料、第六はマルセイユでの工芸品、そして第七は……」
老人の声が一瞬途切れた。
「第七は、ロンドンでの金融契約じゃ。これが最も重要で、最も危険な契約と言えるじゃろう」
鯨岡が太い腕を組んだ。「なるほどな。世界の主要な港を結ぶ貿易網を作ろうってことか。しかし、なぜ四十年も経った今になって?」
「それは……」陳老人の表情が曇った。「帝国商事が動き出したからじゃ」
その名前を聞いた瞬間、室内の空気が張り詰めた。蒼一郎は胸の奥で何かが冷たく固まるのを感じた。
「帝国商事?」
「ああ、龍之介さんの商売仲間だった男が興した商会じゃ。名を北条辰巳という。奴は当初、七つの契約の理念に賛同していたが、途中から考えを変えた。平等な貿易ではなく、武力と権力による支配的な商取引を目指すようになったのじゃ」
李明華が息を呑んだ。「それで、海堂さんのお父様は……」
「龍之介さんは北条と袂を分かった。そして七つの契約の成就を阻止するため、姿を消したのじゃ。もし北条の手に全ての契約が渡れば、アジア全域の貿易が帝国商事に支配されることになる。それだけは避けねばならんと考えたのじゃろう」
蒼一郎は拳を握りしめた。父の真の姿が、ようやく見えてきた気がした。家族を捨てたのではない。より大きな理想のため、より多くの人々を守るために、一人で重荷を背負ったのだ。
「その北条辰巳は、今も?」
「生きておる。今や帝国商事は東洋最大の商会の一つじゃ。奴は君たちがここに来ることも既に知っておろう。恐らく、他の契約の在り処も調べ上げているはずじゃ」
マリアが立ち上がった。月光が窓から差し込み、彼女の決然とした横顔を照らしていた。
「それなら、私たちが先に契約を集めるまでです」
「マリア……」蒼一郎が名前を呼びかけた時、彼女は振り返った。
「蒼一郎、あなたのお父様の理念は正しい。私も英国で貴族たちの傲慢を見てきました。力による支配ではなく、互いを尊重する対等な関係こそが、真の繁栄をもたらすのです」
鯨岡が豪快に笑った。「面白くなってきたじゃないか!世界を股にかけた宝探しときたもんだ。龍之介の兄貴に恩がある俺としては、息子の冒険に付き合わねえわけにはいかねえ」
李明華も頷いた。「僕も上海で帝国商事の横暴を見ています。小さな商人たちが泣かされているんです。止める時が来たんですね」
蒼一郎は仲間たちの顔を見回した。それぞれ異なる背景を持ちながら、同じ志を抱いている。父が一人で背負った重荷を、今度は四人で分かち合うことができる。
「陳老人、七つの契約の手がかりを教えてください。父上が遺したものを、必ず完成させます」
老人は安堵の表情を浮かべた。「実は、わしも長いことその時を待っておったのじゃ」
陳老人は再び羊皮紙を広げ、七つの港の位置を指差しながら説明を始めた。それぞれの契約には特定の条件があり、単に文書を集めるだけでは不十分だった。その土地の人々との信頼関係を築き、真の理解を得なければならない。
「第二の契約がある上海では、李明華の知識が役に立つじゃろう。第六のマルセイユでは、マリアの語学力と西洋の知識が必要じゃ。第一のシンガポールは、わしがおる。問題は残りの四つの港じゃな」
蒼一郎は地図を見つめながら考えを巡らせた。ボンベイ、マニラ、アレクサンドリア、ロンドン。いずれも遠く、それぞれ異なる文化と言語を持つ土地だった。
「帝国商事は、どのくらい先行しているのでしょうか?」
「北条の情報網は広い。恐らく、いくつかの契約については既に手がかりを掴んでいるじゃろう。じゃが、契約の成就には時間がかかる。君たちにもまだ充分に勝機はあるはずじゃ」
その時、階下から慌ただしい足音が聞こえてきた。陳老人の表情が緊張に変わる。
「誰じゃ、こんな夜更けに……」
茶館の主人が慌てて階段を駆け上がってきた。「陳老人、大変です!港に帝国商事の船が入ってきました。明朝、北条辰巳自らがこの街に上陸するという情報が入っています」
室内に緊張が走った。蒼一郎は立ち上がり、窓から港の方角を見やった。確かに、見慣れない大型の蒸気船が停泊している。船体には帝国商事の旗印が掲げられていた。
「思ったより早かったな」鯨岡が呟いた。
陳老人が急かすように言った。「君たちは明日の夜明け前に、ここを発たねばならん。次の目的地を決めるのじゃ」
蒼一郎は仲間たちと視線を交わした。冒険は想像以上に厳しいものになりそうだった。しかし同時に、胸の奥で闘志が燃え上がるのを感じていた。
父の遺した理念のため、そして新しい世界を創造するため、彼らの真の冒険が今、始まろうとしていた。