海賊との遭遇から三日が経ち、蒼龍丸は香港の港に静かに錨を下ろした。朝霧に煙る維多利亜港の向こうに、英国の植民地として発達したこの東洋の要衝都市が姿を現している。

 「ここが香港か」蒼一郎は船首に立ち、異国の香りを含んだ潮風を深く吸い込んだ。港には様々な国籍の船が停泊し、まさに世界の縮図とでも呼ぶべき光景が広がっている。

 「思ったより大きな街だな」マリアが隣に並び、英語で呟いた。故郷を思い出しているのか、その表情には複雑な色が浮かんでいる。

 鯨岡が舵輪から手を離しながら声を上げた。

 「よし、まずは補給だ。水と食料、それから燃料も必要だろう。シンガポールまではまだ遠い」

 その時、明華が甲板に上がってきた。昨夜から航海図と睨めっこしていたらしく、目に疲れの色が見える。しかし、その表情は自信に満ちていた。

 「蒼一郎さん、この港での補給と情報収集なら、私にお任せください」明華の声には今までにない力強さがあった。「ここは上海から多くの商人が来ています。私の故�郷の言葉が通じるはずです」

 蒼一郎は少年を見つめた。これまで明華は語学の才能を見せてはいたが、実際の商取引の場面では遠慮がちだった。だが今日の彼は違う。海賊との遭遇を経て、何かが変わったのかもしれない。

 「頼む。ただし、一人では危険だ。私も同行しよう」

 「いえ、この港では中国人の若者が一人で動く方が自然です。怪しまれません」明華は首を振った。「それに、私だって海堂商会の一員です。皆さんに認めてもらいたいんです」

 その言葉に、蒼一郎は胸の奥が熱くなるのを感じた。明華の瞳に宿る決意の光は、間違いなく本物だった。

 「分かった。だが何かあったらすぐに戻ってこい」

 明華は嬉しそうに頷き、慣れた様子で上着を羽織った。まるで別人のように堂々とした足取りで上陸していく後ろ姿を、三人は船上から見送った。

 午前中いっぱい、蒼一郎たちは船の整備に時間を費やした。航海の疲れが各所に現れており、特に帆の補修は急務だった。マリアの器用な手仕事で、破れた箇所が次々と修繕されていく。

 昼過ぎ、明華が戻ってきた。両手に荷物を抱え、満足そうな笑顔を浮かべている。

 「おかえり」蒼一郎が声をかけると、明華は誇らしげに胸を張った。

 「まず食料です。塩漬けの肉と干し魚、それから新鮮な野菜も手に入りました。相場の七割で買えました」

 荷物の中身を確認すると、確かに質の良い食材が詰まっている。量も申し分ない。

 「それから」明華は声を落とした。「例の七つの契約について、重要な情報を得ました」

 三人は身を寄せた。

 「シンガポールに、オランダ系の商人で『ヘンドリック・ファン・デル・ベルク』という人物がいます。彼は東インド会社の古い取引先で、昔から様々な契約書を収集している。もしかすると、私たちが探しているものを知っているかもしれません」

 蒼一郎の心臓が早鐘を打った。ついに具体的な手がかりが見つかったのだ。

 「どこでそんな情報を?」鯨岡が驚いて尋ねる。

 「港の茶館です。上海から来た商人たちが集まる場所があるんです。私は故郷の商家の息子だと名乗って、自然に会話に加わりました」明華の目が輝いている。「皆、私を仲間だと思って、いろいろ話してくれました」

 マリアが感心したように手を叩いた。

 「素晴らしいわ。私たち外国人では絶対に聞き出せなかった情報ね」

 「それだけではありません」明華は続けた。「シンガポールの港の最新情報も手に入れました。現在、英国海軍の警備が厳しくなっているそうです。密輸業者の取り締まりが強化されているとか」

 鯨岡が唸った。

 「なるほど、それは重要だな。正規の手続きで入港しないと面倒なことになりそうだ」

 「はい。それから、シンガポールでの宿泊先や、信頼できる補給業者の情報も集めました」明華は小さなノートを取り出し、丁寧な字で書き込まれたメモを見せた。「全て、実際に取引をした商人からの推薦です」

 蒼一郎は感動を隠せなかった。明華の働きは期待を遥かに上回っている。これまで彼を子供扱いしていた自分を恥じた。

 「明華、君は本当にすごいな」蒼一郎は率直に賞賛の言葉を口にした。「君がいなかったら、私たちは右も左も分からずに苦労していただろう」

 明華の頬が少し赤くなった。

 「そんな、私はただ故郷の言葉を話しただけです」

 「いや、そうじゃない」鯨岡が大きな手で明華の肩を叩いた。「言葉が話せるだけじゃ、こうはいかない。お前には商人としての才能がある。相手の心を開く術を知っている」

 マリアも頷いた。

 「その通りよ。明華は私たちの大切な仲間だわ。今日、それがよく分かった」

 夕方、四人は船上で久しぶりにゆっくりとした夕食の時間を過ごした。明華が手に入れた新鮮な野菜で作った汁物は、旅の疲れを癒やす滋味深い味だった。

 「それにしても」蒼一郎が箸を置きながら言った。「ヘンドリック・ファン・デル・ベルクか。オランダ系の商人なら、マリア、君の英語も通じるだろう」

 「ええ。オランダ人の多くは英語を解するわ。でも」マリアは少し困ったような表情を見せた。「もし彼が本当に契約書を収集しているとしたら、簡単には手放さないでしょうね」

 「そこは交渉次第だ」蒼一郎の目に決意の光が宿った。「海堂商会には相応の資本がある。適正な対価を支払えば、話は通じるはずだ」

 明華が心配そうに口を開いた。

 「でも、もしその人が契約書を持っていなかったら?」

 「その時は次の手がかりを探すまでだ」蒼一郎は力強く答えた。「今日の君の働きを見て確信した。私たちなら必ず見つけられる」

 翌朝、蒼龍丸は再び錨を上げた。香港の港を後にする時、明華は振り返って故郷の方角を見つめていた。

 「寂しいか?」蒼一郎が声をかけると、明華は首を振った。

 「いえ、もう故郷への思いと、これからへの期待で胸がいっぱいです。昨日、初めて自分が本当に役に立てたと実感できました」

 南シナ海の青い海原が四人を迎えている。シンガポールまではまだ数日の航海が続く。だが、香港で得た手がかりと、明華への新たな信頼を胸に、蒼龍丸は力強く波を切って進んでいく。

 船首で海図を広げながら、蒼一郎は思った。父が築いた海堂商会の理念を受け継ぐこの航海で、自分も仲間たちも確実に成長している。そして今、新たな謎の人物ヘンドリック・ファン・デル・ベルクが待つシンガポールへ向かう中で、七つの契約の謎は次第に核心に近づこうとしていた。

潮騒の商会と七つの海

12

香港の商人

潮見 航

2026-04-01

前の話
第12話 香港の商人 - 潮騒の商会と七つの海 | 福神漬出版