出航から三日目の朝、南シナ海は穏やかな碧い水面を見せていた。しかし、マリアの表情は険しい。
「風向きが変わりました。それに、あの雲の色……」
マリアが指差す水平線の彼方に、黒い雲が低く垂れ込めている。蒼龍丸の甲板で海図を広げていた蒼一郎が顔を上げた。
「嵐でしょうか」
「いえ、それよりも……」マリアが双眼鏡を手に取る。「あの島影の向こうに、何か船影が見えるような気がします」
明華が機敏に帆柱に駆け上がり、見張りの役目を買って出る。しばらくして、彼の声が甲板に響いた。
「三隻!三隻の船が島の陰から出てきます!」
鯨岡鉄蔵が舵輪の傍らで眉をひそめた。この海域を知り尽くした男の直感が、危険を察知している。
「おかしいな。この時刻に、あの位置にいる理由がない」
程なく、その理由は明らかになった。三隻の船は明らかに蒼龍丸を追尾するように航路を変更し、徐々に距離を縮めてくる。船首に掲げられた旗は見慣れぬ紋様だったが、船体の武装と乗組員の様子を見れば、その正体は一目瞭然だった。
「海賊です」明華の声が震えている。
蒼一郎の顔が青ざめた。商売の世界では数々の困難を乗り越えてきた彼も、海上での実戦経験は皆無に等しい。
「鯨岡さん、どうすれば……」
「まずは逃げるんだ」鯨岡が舵を力強く切る。「蒼龍丸は新しい船だ。速度では負けん」
しかし、追手の船は予想以上に手強かった。特に先頭を行く一隻は軽快で、みるみるうちに距離を詰めてくる。
「こりゃあ、只者じゃあねえな」鯨岡が舌打ちする。「昔の知り合いかもしれん」
マリアが振り返る。「知り合い?」
「俺も昔は……まあ、似たような商売をしていたからな」
その時、先頭の海賊船から砲弾が発射された。蒼龍丸の船首から数メートル逸れたところに水柱が上がる。
「警告射撃です!」明華が叫ぶ。
蒼一郎の胸に恐怖が走る。これが現実なのか。平和な横浜の商会で過ごしていた日々が、遠い昔のことのように感じられた。
「降伏しろという意味だ」鯨岡が低い声で呟く。「だが、降伏すれば命の保証はない。積み荷を奪われ、船も沈められるだろう」
マリアが毅然とした表情で立ち上がった。「ならば、戦うしかありませんね」
「いや、待て」鯨岡が手を上げる。「俺に考えがある」
鯨岡は船室に駆け込むと、古い木箱を持ち出してきた。中から取り出したのは、見慣れない旗だった。赤い地に黒い龍の紋章が描かれている。
「これを掲げろ」
「それは何ですか?」蒼一郎が問う。
「昔、俺が属していた海賊団の旗だ。『黒龍会』という名前でな。この海域じゃあ、まだ名前が通っているかもしれん」
旗が掲げられると、不思議なことが起こった。追手の船の動きが鈍くなったのである。先頭の船から、角笛の音が響いた。
「どういう意味です?」明華が息を詰めて尋ねる。
「会談の合図だ」鯨岡が安堵の表情を浮かべる。「恐らく、俺を知っている奴がいるんだろう」
海賊船が接舷してくる。甲板に現れたのは、浅黒い肌に鋭い眼光を光らせた中年の男だった。
「おお、鉄蔵じゃないか!生きていたのか!」
男は流暢な日本語で鯨岡に声をかけた。鯨岡も懐かしそうに手を振る。
「おう、李船長。元気にやっているようだな」
李船長と呼ばれた男は、蒼一郎たちを見回した。
「商人になったのか?」
「まあ、そんなところだ。この若い衆の船に雇われてな」
李船長は何かを考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「昔の義理で見逃してやろう。だが、この海域は我々の縄張りだ。通行料を払ってもらう」
蒼一郎が前に出た。恐怖を押し殺し、商人としての冷静さを保とうと努めている。
「いくら必要でしょうか」
「銀貨百枚」
法外な金額だったが、命と船を考えれば安いものだった。蒼一郎は迷わず頷いた。
「お支払いします」
取引が成立すると、海賊たちは意外にもあっさりと去っていった。鯨岡が旗を降ろしながら、深いため息をついた。
「すまん、蒼一郎。俺の過去が迷惑をかけた」
「いえ」蒼一郎が首を振る。「鯨岡さんがいなければ、もっと酷いことになっていたでしょう」
マリアが鯨岡の肩に手を置いた。
「あなたの経験が私たちを救ったのです。過去を恥じる必要はありません」
明華も頷く。「僕たちは仲間です。どんな過去があっても」
鯨岡の目に、かすかに涙が浮かんだ。
「ありがてえ……」
危機は去ったが、蒼一郎の心には複雑な感情が渦巻いていた。海の厳しさ、世界の現実を目の当たりにして、自分たちの旅がいかに危険に満ちているかを思い知らされたのである。
夕暮れ時、甲板に四人が集まった。
「今日のことを考えると」蒼一郎が口を開く。「この旅がどれほど困難なものかが分かります」
「でも」マリアが夕日を見つめながら言った。「だからこそ、価値のある旅なのかもしれません」
明華が海図を広げる。「シンガポールまで、あと二日の航海です。きっと祖父の手がかりが見つかるでしょう」
鯨岡が舵を握り直した。「何があっても、俺たちは進むんだ。それが海に生きる者の掟だからな」
蒼龍丸は夕日に向かって進んでいく。しかし、水平線の向こうには、まだ見ぬ困難が待ち受けていることを、四人はまだ知らなかった。
その夜、明華は一人甲板に立ち、故郷の方角を見つめていた。祖父李永昌の日記を読み返しながら、ある一節に目を止める。
「信頼できる仲間を見つけることができれば、どんな嵐も乗り越えられる」
明華の心に、新たな決意が芽生えていた。そして、遠く離れたシンガポールの港で、彼らを待つ人物もまた、この夜空を見上げていた。