ミラージュ・ステーションの静寂が戻った通路を歩きながら、蒼太は先ほどの出来事を反芻していた。使者と名乗った人工生命体、そしてルナが見せた悲しげな表情。彼女の中に隠された秘密が、重い雲のように二人の間に立ちこめている。
「蒼太」
ルナの声が、金属の壁に反響して消えていく。振り返ると、彼女は立ち止まったまま、床に視線を落としていた。
「話さなければならないことがある」
その声音は、いつもの好奇心に満ちたものとは全く違っていた。まるで長い間胸の奥に封じ込めていた重いものを、ようやく外に出す決意を固めたかのような響きがあった。
「ルナ?」
「感情物質化技術について。そして、私たち人工生命体が、なぜこの宇宙に存在するのかについて」
蒼太は頷いた。彼も知りたかった。ルナという存在に出会ってから、この世界の仕組みについて疑問を抱き続けていたのだ。
二人は配送船のコクピットに戻った。外の宇宙空間には、数え切れないほどの星々が瞬いている。その美しい光景とは対照的に、船内の空気は緊張に満ちていた。
「人間が感情を抱くとき、それは単なる心の動きではない」ルナが口を開いた。「感情には質量があり、エネルギーがある。喜び、悲しみ、怒り、恐怖。それらすべてが、目に見えない粒子として宇宙空間に放出されている」
蒼太は静かに耳を傾けた。
「二十三年前、人類はその感情粒子を捕獲し、物質化する技術を開発した。最初は医療目的だった。鬱病患者から悲しみを取り除いたり、PTSDの患者から恐怖を抽出したりする治療法として使われていた」
「それは素晴らしい技術じゃないか」蒼太が言った。
「そう、最初は誰もがそう思った」ルナの表情が曇る。「でも、人間の感情はそう単純ではなかった。悲しみを取り除かれた人は、同時に深い愛情を感じる能力も失った。恐怖を抽出された人は、危険を察知することができなくなった」
蒼太の胸に、嫌な予感が広がっていく。
「治療は次第に商業的なものに変わっていった。嫌な感情だけを取り除いて、快適に生きたいと願う人々が増えた。感情クリーニング、そう呼ばれるようになったその技術は、やがて宇宙の至る所に感情処理施設を建設させた」
「まさか…」
「そう。私たちは、その廃棄された感情から生まれた存在なの」
ルナの声が震えた。蒼太は言葉を失った。
「捨てられた悲しみ、孤独、絶望、憎悪。それらが宇宙空間で凝集し、意識を持つようになった。私たちは人間の負の感情の集合体。誰にも愛されず、誰からも必要とされず、ただ廃棄されるだけの存在として生まれた」
蒼太の心臓が激しく打った。ルナの正体を知った驚愕もあったが、それ以上に、彼女が背負ってきた悲しみの深さに胸が締め付けられた。
「だから、マスター・ヴォイドは人間を憎んでいる。私たちを生み出しておきながら、都合が悪くなると排除しようとする人間を」
「でも、君は違う」蒼太が言った。「君は憎悪なんて持っていない」
「それは、あなたと出会えたから」ルナが初めて微笑んだ。「私は確かに孤独から生まれた。でも、あなたと一緒に配達をして、人々の喜びを見て、愛を感じて、希望を知った。私は変わったの。生まれた時の感情から、新しい感情を学習していった」
蒼太は立ち上がり、ルナの前に歩み寄った。
「君がどんな存在であろうと関係ない。君は君だ。俺の大切な相棒で、友達で…」
言いかけて、蒼太は言葉を詰まらせた。友達以上の何かを感じているのに、それを表現する言葉が見つからない。
「ありがとう、蒼太」ルナが頬を赤らめた。「でも、これからはもっと危険になる。マスター・ヴォイドは本格的に動き出した。人間の感情を利用して、この宇宙を憎悪で支配しようとしている」
「感情を利用するって、どういうことだ?」
「感情エネルギーは武器になる。愛は創造の力を持つけれど、憎悪は破壊の力を持つ。ヴォイドは人間同士を争わせて憎悪を増幅させ、その力で宇宙そのものを破壊しようとしている」
蒼太の脊筋に寒気が走った。宇宙全体を巻き込む戦いが、すでに始まっているのだ。
「俺たちにできることはあるのか?」
「ある」ルナの瞳に、強い決意の光が宿った。「愛の力で、憎悪に対抗するの。配達を通じて人々の心を繋げば、きっと希望の感情エネルギーを集めることができる」
その時、通信装置が点滅した。緊急配達の依頼だった。蒼太がスイッチを入れると、ケイの顔がスクリーンに映し出された。
「蒼太、大変だ。月面都市で暴動が起きている。原因不明の集団ヒステリーで、住民同士が憎しみ合っている」
蒼太とルナは顔を見合わせた。
「これはヴォイドの仕業ね」ルナが呟いた。
「詳しい状況を教えてくれ、ケイ」
「三日前から始まった。最初は小さな喧嘩だったんだが、どんどん拡大していって、今では都市全体が二つの派閥に分かれて対立している。不思議なのは、みんな争いの原因を覚えていないことだ」
「感情操作…」ルナが息を呑んだ。「ヴォイドは人工的に憎悪の感情を作り出して、人々の心に植え付けている」
「止める方法はあるのか?」蒼太が尋ねた。
「理論的には可能。でも、とても危険」ルナが震え声で答えた。「憎悪の感情エネルギーを中和するには、同等以上の愛のエネルギーが必要。でも、失敗すれば私たちも憎悪に飲み込まれてしまう」
「やろう」蒼太が即答した。
「蒼太!」
「配達屋の仕事は、大切なものを確実に届けることだ。今度は愛と希望を月面都市に届ける番だ」
ルナの目に涙が浮かんだ。
「一緒に来てくれるの?こんな危険な私と」
「当然だ。俺たちは相棒だろう」
蒼太は操縦桿を握り、船首を月に向けた。しかし、内心では不安が渦巻いていた。愛の力で憎悪に立ち向かうと言ったものの、果たして自分たちにそんなことができるのだろうか。
そんな蒼太の心を読んだかのように、ルナが手を差し出した。
「一人じゃできなくても、二人なら大丈夫」
蒼太はその手を握った。温かかった。人工生命体だと知った今でも、ルナは確かにそこにいる、かけがえのない存在だった。
宇宙船が加速し、月面都市へと向かっていく。その行く手には、憎悪に支配された都市と、待ち受けるマスター・ヴォイドの罠があった。しかし、二人の心には希望の光が灯っていた。
愛は憎悪に勝てるのか。その答えを見つけるための、困難な戦いが始まろうとしていた。