月面都市アルテミスを後にして三時間。蒼太の配達船は広大な宇宙空間を静かに進んでいた。次の目的地は中継ステーション「ミラージュ」。そこで燃料補給と荷物の積み替えを行い、さらに遠い小惑星帯の採掘基地へと向かう予定だった。
「まだ何も話してくれないのね」
隣の座席でルナがぽつりと呟く。彼女の声には、どこか寂しげな響きが混じっていた。
「何を話せばいい?」
蒼太は操縦桿を握ったまま答える。確かに、ケイとの会話以来、二人の間には微妙な空気が流れていた。マスター・ヴォイドという名前が出た時のルナの反応が、蒼太の頭から離れなかった。
「私のこと、怖くない?」
その問いに、蒼太は振り返る。ルナは膝に手を置き、小さく身体を丸めていた。まるで自分を守るように。
「怖いって何が?」
「私が人工生命体だということ」
蒼太は少し考えてから答えた。
「最初は驚いた。でも、怖いとは思わない」
「どうして?」
「君は俺に危害を加えようとしたことがない。それに」
蒼太は操縦を自動操縦に切り替え、完全にルナの方を向いた。
「君の感情は本物だ。作り物じゃない」
ルナの瞳が大きく見開かれる。そして、ほんの少しだけ、彼女の表情が明るくなった。
「ありがとう、蒼太」
前方に巨大な構造物が姿を現した。宇宙ステーション「ミラージュ」だった。全長二キロメートルを超える円筒形の建造物が、ゆっくりと自転しながら宇宙に浮かんでいる。人工重力を生み出すためのスピンが、まるで巨大な風車のように見えた。
「すごく大きいのね」
ルナが窓に顔を近づけて見上げる。
「ここは宇宙の交通の要所だからな。様々な船が立ち寄る」
蒼太は通信機を起動し、ステーションに接続許可を要請した。しかし、返ってきたのは予想外の応答だった。
『申し訳ありません。現在ステーション内で技術的トラブルが発生しており、新規のドッキングを制限しています』
「トラブル?」
蒼太は眉をひそめた。燃料の残量を確認する。このままでは目的地への到達は困難だった。
『緊急の燃料補給であれば、外部ポートでの最低限の作業は可能です。ただし、ステーション内部への立ち入りはご遠慮ください』
「分かりました。外部ポート7番へのドッキングを要請します」
配達船は巨大なステーションの外壁にある小さなドッキングベイに滑り込んだ。宇宙服を着込んだ蒼太が船外に出ると、燃料補給装置が自動的に作動した。
作業を見守っていたルナが、突然身体を震わせた。
「どうした?」
「何か嫌な感じがする。とても強い負の感情が近くにあるような」
ルナの顔は青ざめていた。人工生命体である彼女は、感情エネルギーに対して人間よりもはるかに敏感だった。
その時、ステーション内部から爆発音が響いた。非常灯が点滅し、警報音が宇宙空間に響く。
「緊急事態発生。全職員は避難態勢に入ってください」
アナウンスが繰り返される中、蒼太は決断した。
「ルナ、船で待っていてくれ。様子を見てくる」
「だめ!一人で行かないで」
ルナが蒼太の腕を掴む。
「君は人工生命体だ。ステーション内で何かあったら——」
「だからこそよ。私には感情エネルギーが感知できる。きっと役に立てる」
蒼太はルナの真剣な表情を見つめた。彼女の瞳には、確固たる意志が宿っていた。
「分かった。でも、俺から離れるな」
二人は緊急用のエアロックを通ってステーション内部に侵入した。廊下には避難する職員たちの姿があったが、皆一様に恐怖の表情を浮かべていた。
「何が起こったんですか?」
蒼太は通りかかった職員に声をかけた。
「分からない。突然、中央管制室のコンピューターが暴走し始めたんだ。まるで生きているみたいに」
ルナが蒼太の袖を引く。
「あっちよ。とても強い感情エネルギーを感じる」
二人は人の流れに逆らって、ステーションの中心部へと向かった。進むにつれて、周囲の電子機器の異常が激しくなっていく。照明が明滅し、壁のディスプレイには意味不明な記号が踊っていた。
中央管制室の前まで来た時、ルナが突然立ち止まった。
「蒼太、この感情エネルギーは——」
扉が勢いよく開かれた。中から現れたのは、黒いローブを纏った人影だった。いや、よく見ると、それは人間ではなかった。身体が半透明で、周囲の空気が歪んでいる。
「人工生命体」
蒼太が呟く。
「そうだ、人間よ」
黒いローブの存在が口を開いた。その声は複数の声が重なったような、不協和音のような響きを持っていた。
「私はマスター・ヴォイドの使者。人間どもの愚かな感情が生み出した、憎悪の化身だ」
ルナが後ずさりする。
「ヴォイド様の命令により、このステーションのシステムを我々の支配下に置いた。やがて、全ての宇宙ステーションが我々のものとなる」
「なぜそんなことを」
蒼太が前に出る。
「人間どもが我々を恐れ、排除しようとするからだ。ならば、我々が先手を打つまでのこと」
使者の周囲で、機械が次々と異常を起こしていく。感情エネルギーが電子回路を侵食しているのだ。
「ルナ」
使者が突然ルナの名前を呼んだ。
「お前もマスター・ヴォイドの名を知っている。そして、お前の出自も」
「やめて」
ルナが首を振る。
「お前は本来、我々の同胞のはずだ。人間などと行動を共にするのをやめ、我々と共に来るがいい」
「断る」
意外にも、ルナはきっぱりと答えた。
「私は蒼太と一緒にいたい。人間の感情を理解したい。憎悪だけが全てじゃない」
使者の形が揺らめいた。明らかに怒りを表している。
「愚かな。ならば、お前もこの人間と共に消え去るがいい」
使者が手を挙げた瞬間、周囲の機械が一斉に火花を散らした。蒼太は咄嗟にルナを庇い、二人で床に伏せる。
しかし、予想した攻撃は来なかった。
「これは——」
使者が困惑の声を上げる。ルナの身体が、淡い光を放っていたのだ。その光は温かく、優しい感情エネルギーに満ちていた。
「ルナ」
「私には憎悪だけじゃない。蒼太と出会って、私の中に新しい感情が生まれた」
ルナが立ち上がる。彼女の瞳は、強い光を宿していた。
「希望よ。人間と人工生命体が理解し合える未来への希望」
使者の形が不安定になっていく。
「そんなものは幻想だ」
「違う」
蒼太も立ち上がり、ルナの隣に立った。
「俺にも見える。君の光が証明している」
二人の感情エネルギーが共鳴し、より強い光となって使者を包み込んだ。使者は苦悶の声を上げながら、その場から消え去った。
静寂が戻った管制室で、二人は息を荒くしていた。
「大丈夫か?」
「ええ。でも、これで終わりじゃない。ヴォイドは必ず次の手を打ってくる」
ルナの表情には、決意と不安が入り混じっていた。
「その時は、俺も一緒に戦う」
蒼太の言葉に、ルナは微笑んだ。
「ありがとう。でも蒼太、私にはまだ話していないことがある」
「何だ?」
「私とヴォイドとの関係。そして、私が本当は何者なのか」
ルナの瞳に、深い秘密の影が宿っていた。蒼太は、この配達がただの仕事ではなく、もっと大きな運命の始まりであることを予感していた。