魔王城の玉座の間は、静寂に包まれていた。先ほどまで禍々しいオーラを放っていたエドワードは、今や膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽を漏らしていた。その姿は、かつて民に慕われた王の面影を確かに宿している。
「エドワード様……」
城下の住民たちがひとり、またひとりと玉座の間に足を踏み入れてきた。老人も子供も、皆一様に複雑な表情を浮かべながらも、恐れではなく心配の色を瞳に湛えていた。
「みんな……私は、私は何ということを……」
エドワードの声は震えていた。正気を取り戻した彼の目に映るのは、自らが破壊した城の惨状と、それでも自分を見捨てずにいてくれる民たちの姿だった。
颯太は静かにエドワードの前に歩み寄った。手には、まだ温かみの残る卵焼きを載せた皿を持っている。
「エドワードさん、まだ終わりじゃない」
「……何?」
「あなたの中には、まだ埋もれている記憶があるはずです。大切な人たちとの、温かい記憶が」
颯太の言葉に、エドワードは困惑の表情を見せた。魔王として過ごした年月の間に、多くの記憶が闇に沈んでいる。だが颯太には確信があった。料理の香りが呼び覚ましたのは、ほんの一部に過ぎない。
「リリア、手を貸してくれ」
「はい!」
リリアが魔法の光を放つと、玉座の間に調理台が現れた。颯太は迷うことなく、持参した食材を並べ始める。
「何をするつもりだ?」
アーサーの問いかけに、颯太は振り返った。
「記憶の料理を作ります。エドワードさんの人生の中で、本当に大切だった瞬間の料理を」
颯太は目を閉じ、先ほどエドワードの表情を思い出していた。卵焼きの香りに触れた時、彼の瞳に浮かんだのは恋人への愛情だけではなかった。もっと深い、もっと複雑な感情の層があった。
「グランド、あなたは長く生きているから分かるはずです。人の記憶は重層的なものだと」
「うむ。一つの料理でも、人によって異なる記憶を呼び起こす。お前は何を見つけたのだ?」
颯太は包丁を手に取った。
「エドワードさんの中に、まだ光を失っていない部分を見つけました。それを呼び覚ますには、もっと根深い記憶に触れる必要がある」
調理が始まった。颯太の手は迷いなく動く。まず彼が選んだのは、小麦粉と卵、そして牛乳だった。
「これは……パンケーキ?」
咲良が呟く。だが颯太の作るそれは、一般的なパンケーキとは少し違っていた。生地にはスパイスが効いており、表面には細かい焦げ目が規則正しくついている。
「王室の朝食として出されていた、クレープ風のパンケーキです」
颯太の説明に、エドワードがはっと顔を上げた。
「それは……」
「思い出しますか? まだ王子だった頃、お母様と一緒に朝食を取った時の料理です」
甘い香りが玉座の間に広がっていく。エドワードの目に、遠い記憶の光が宿り始めた。
「母上は……いつも私の好きなベリーのジャムを用意してくださって……」
「ええ、そうです」
颯太は微笑みながら、森で採れたブルーベリーでジャムを作り始めた。砂糖を控えめにし、ベリーの自然な酸味を活かした、上品な甘さのジャムだった。
次に颯太が取り掛かったのは、より複雑な料理だった。鶏肉と野菜をじっくりと煮込んだシチューに、丁寧に練り上げた餃子を浮かべている。
「チキンアンドダンプリング……」
リリアが料理名を呟いた。これは異世界でも庶民的な料理として親しまれているものだが、颯太の作るそれは一味違っていた。
「これは民間に視察に出かけた時、ある農家で食べた料理ですね」
颯太の言葉に、エドワードの表情がさらに和らいだ。
「農夫の奥さんが……『王子様にも食べていただけるような上等なものじゃございませんが』と言いながら出してくれた……」
「でも、あなたはそれを美味しそうに食べた。その時の奥さんの嬉しそうな顔を覚えていますか?」
エドワードは静かに頷いた。目尻に涙が浮かんでいる。
「覚えています……あの時の私は、心から幸せでした。民の皆と同じものを食べ、同じ時間を過ごすことが、こんなにも温かいものだとは思わなかった」
料理はまだ続いた。颯太は次々と皿を完成させていく。王位継承の祝宴で出された豪華な料理から、兵士たちと分け合った質素な野戦食まで。エドワードの人生の要所要所で彼が口にした料理を、丁寧に再現していく。
「すごい……」
住民の一人が息を呑んだ。玉座の間には、いつの間にか数十皿もの料理が並んでいる。それぞれが異なる時代、異なる場所での思い出を象徴していた。
「さあ、エドワードさん」
颯太は手を差し出した。
「あなたの人生を、もう一度味わってみてください。失ったものばかりではなく、確かにあった幸せな時間も一緒に」
エドワードはゆっくりと立ち上がった。魔王としての禍々しさは完全に消え去り、そこにいるのは一人の傷ついた男性だった。
彼は最初のパンケーキを口にした。ベリージャムの甘酸っぱさが口の中に広がると、母親の優しい笑顔が心に蘇った。
「お母様……」
次にチキンアンドダンプリングを一口。素朴な味わいが、農家の温かい雰囲気を思い出させる。
一皿また一皿と、エドワードは自分の人生を噛み締めていた。その表情は、一口ごとに穏やかさを増していく。
「私は……確かに愛されていたんですね」
彼の言葉に、住民たちがそっと近づいてきた。
「エドワード様は、私たちにとって大切な王様でした。今でも変わりません」
老人の言葉に、エドワードは再び涙を流した。だが今度は、絶望の涙ではなかった。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
グランドが颯太の肩に手を置いた。
「見事だった、颯太よ。お前の料理は、ただ味を再現するだけではない。その奥にある心まで蘇らせる」
「まだです」
颯太は首を振った。確かにエドワードは正気を取り戻し、過去の良い記憶も蘇った。だが彼を魔王に変えた根本的な傷は、まだ癒えていない。
「エドワードさん、最後にもう一つだけ」
颯太が取り出したのは、シンプルなスープだった。透明なブロスに、細かく刻んだ野菜と肉が浮かんでいる。一見すると何の変哲もない料理に見える。
「これは……何の料理ですか?」
リリアの問いかけに、颯太は静かに答えた。
「病気の時に食べるスープです。体が弱っている時でも消化しやすく、栄養を補える。でも一番大切なのは……」
「作ってくれる人の、愛情」
エドワードが呟いた。彼はこのスープに見覚えがあった。
「恋人が……最後に作ってくれた料理」
スープを一口飲んだ瞬間、エドワードの目に新たな光が宿った。それは諦めでも絶望でもない、何か違う感情だった。
「彼女は最後まで、私を愛してくれていた……」
颯太は頷いた。
「はい。だからこそ、あなたに生きていてほしいと願った。あなたが幸せになることを望んでいたはずです」
エドワードは静かにスープを飲み干した。そして深く息を吸い、住民たちを見回した。
「皆さん、私はもう一度、王として歩み直したいと思います。償いの道のりは長いでしょうが……あなたたちと一緒なら、きっと」
住民たちの顔に、希望の光が戻ってきた。だがその時、城全体が不気味に震え始めた。
「何だ、この揺れは!」
アーサーが剣の柄に手をかける。グランドも警戒の表情を見せた。
「まずい……魔王の力が失われたことで、城を支えていた魔法が不安定になっている」
リリアの言葉に、一同の顔が青ざめた。このままでは城が崩壊し、皆が巻き込まれてしまう。
だがエドワードは、なぜか静かに微笑んでいた。
「大丈夫です。私にはまだ、やるべきことがある」
彼の瞳に、新たな決意の炎が宿っていた。