朝日が地平線から昇り始める頃、青嵐食堂の扉がゆっくりと開かれた。颯太は深呼吸をして、背負った調理道具の重さを確かめる。昨夜、仲間たちと交わした約束が胸に宿っていた。
「さあ、行こうか」
リリアがそっと颯太の手を握り、微笑みかける。彼女の手は少し冷たかったが、その温もりが颯太に勇気を与えてくれた。
「うむ、今日こそ決着をつけよう」グランドの重厚な声が響く。「だが忘れるでないぞ、颯太よ。我らは常にお主の後ろにいる」
アーサーが剣の柄に手を置き、静かに頷いた。「何があろうとも、必ずあなたを守り抜きます」
咲良は兄の肩に手を置いて言った。「お兄ちゃん、無理しちゃダメよ。でも……信じてるから」
五人は異世界への扉をくぐり、魔王城へ向かった。
魔王城は以前にも増して禍々しいオーラに包まれていた。黒い雲が城を覆い、稲妻が絶え間なく空を切り裂いている。城の周囲には深い亀裂が走り、そこから赤い炎がちらちらと舞い上がっていた。
「魔力の乱れがひどくなってる」リリアが眉をひそめる。「エドワード様の心の傷が、さらに深くなってしまったのかも」
颯太は城門を見上げながら、調理用のナイフを握り締めた。このナイフで、どれだけの温かい料理を作ってきただろうか。そしてこれから、このナイフで人の心を救えるだろうか。
城門が重々しく開かれると、深い闇が彼らを迎えた。廊下の両側には炎が燃え上がり、足音が不気味に響く。やがて彼らは巨大な玉座の間にたどり着いた。
そこに座していたのは、もはやエドワードの面影をほとんど残していない魔王の姿だった。漆黒のローブに身を包み、赤く光る瞳が彼らを見下ろしている。しかし、颯太にはその奥にある深い悲しみと孤独が見えていた。
「よく来たな、料理人よ」魔王の声が玉座の間に響き渡る。「貴様らがここまで来るとは、多少は見くびっていたようだ」
「エドワード」颯太は一歩前に出た。「君はまだそこにいるんだろう?君の大切な思い出も、愛する人への気持ちも、全部まだ心の中にあるはずだ」
魔王の表情がわずかに歪む。「エドワード?その名前はもう存在しない。あるのは絶望と怒りだけだ」
「それは違う」颯太は調理道具を取り出し始めた。「君が忘れてしまった味を、もう一度思い出させてあげる」
魔王が立ち上がり、暗黒の魔力が渦を巻く。「料理などで何ができるというのだ!力こそが全てなのだ!」
強烈な魔法攻撃が颯太に向かって放たれる。しかし、アーサーが身を挺して盾で受け止め、グランドが颯太を守るように前に出た。
「今です!」リリアが防護魔法を展開する。「颯太さん、お料理を!」
颯太は魔法攻撃の嵐の中で、懸命に料理を始めた。まず取り出したのは、昨夜仕込んでおいた特別なパン生地。これにエドワードが幼い頃好きだったハチミツと、彼の故郷で採れるハーブを練り込んである。
「これは……」魔王の動きが一瞬止まる。香ばしいパンの匂いが玉座の間に広がり始めたのだ。
「君のお母さんが作ってくれたパンの味だよ」颯太は手を止めることなく、パンを焼き続けた。「リリアから聞いたんだ。君が小さい頃、お母さんがよく焼いてくれた特別なパンの話を」
魔王の赤い瞳に、一瞬だけ迷いの色が浮かんだ。しかし、すぐにかき消される。
「そんなもので惑わされると思うか!」さらに激しい攻撃が続く。
だが、颯太は諦めなかった。パンが焼き上がると、今度は温かいスープの準備にかかる。エドワードが恋人と初めて一緒に食べた野菜スープ。優しい味わいで、心を温めてくれるスープ。
「君は一人じゃない」颯太が声をかける。「大切な人たちの記憶は、きっとまだ君の心の中に生きているはずだ」
スープの湯気が立ち上ると、魔王の攻撃がわずかに弱くなった。その隙に、颯太は最後の料理にとりかかる。
それは、ごく簡単な卵焼きだった。でも、この卵焼きには特別な思いが込められている。エドワードが恋人に初めて作ってもらった料理。不器用ながらも愛情のこもった、世界で一番温かい卵焼き。
「やめろ……」魔王の声が震え始める。「やめてくれ……」
卵焼きの優しい香りが漂うと、魔王の身体から黒いオーラがゆっくりと消え始めた。そして、その奥からエドワードの本当の姿が現れてくる。
「私は……私は一体何を……」エドワードがよろめきながら膝をついた。
颯太は料理を盆に載せて、エドワードの前に静かに置いた。「食べて。君が忘れてしまった大切な味を、もう一度思い出して」
エドワードは震える手で卵焼きを口に運んだ。その瞬間、彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ああ……思い出した。彼女の笑顔、彼女の温もり、全部……」
魔王城の黒い雲が晴れ始め、穏やかな光が差し込んできた。しかし、エドワードの表情は依然として苦しみに満ちていた。
「でも、もう遅い」エドワードが顔を覆う。「私は取り返しのつかないことをしてしまった。多くの人を傷つけ、大切なものを壊してしまった」
颯太はエドワードの隣に座り、優しく肩に手を置いた。「確かに間違いは犯したかもしれない。でも、まだやり直せる。君にはその力がある」
そのとき、城の外から多くの足音が聞こえてきた。玉座の間に駆け込んできたのは、アルカディア大陸の住民たちだった。彼らの顔には怒りではなく、安堵の表情が浮かんでいる。
「エドワード様!」一人の村人が叫んだ。「お戻りになったのですね!」
エドワードは驚きで目を見開いた。「なぜ……なぜ君たちは私を責めない?」
「あなたは私たちの大切な仲間です」別の住民が答える。「確かに辛いことがありました。でも、あなたが本当はどんな人かを知っています」
リリアが前に出て言った。「エドワード様、料理って不思議ですよね。失敗しても、また作り直せる。人生も同じだと思うんです」
エドワードの瞳に、久しぶりに希望の光が宿った。しかし、まだ完全に心の傷が癒えたわけではなく、彼の周りには微かに不安定な魔力が漂っていた。
颯太は立ち上がり、エドワードに手を差し伸べた。「一緒に帰ろう。そして、今度は僕たちと一緒に、みんなのために料理を作ろう」
果たして、エドワードはその手を取るのだろうか。