夜明けと共に、織部家の邸宅は静寂に包まれていた。しかし、その静けさは嵐の前の静けさだった。朔夜が母の記憶の水晶によって一命を取り留めてから数時間後、記憶番人一族の緊急会議が召集されたのである。
朔夜は客間の床に敷かれた布団で横になっていたが、眠ることはできなかった。隣室から聞こえてくる低い話し声が、まるで審判の太鼓のように彼の心臓を叩き続けている。
「紬さん」
障子戸の向こうから聞こえた朔夜の呼びかけに、足音が止まった。やがて戸がそっと開かれ、白い巫女装束に身を包んだ紬が姿を現した。
「朔夜さま、お身体の具合はいかがですか」
紬の表情は穏やかだったが、その瞳の奥に宿る不安を朔夜は見逃さなかった。
「僕のことで、一族の方々に迷惑をかけているんじゃ」
「そのようなことは」紬は慌てて首を振った。「朔夜さまは我が一族にとって大切な方。たとえ長老方が何を仰られようとも、私は朔夜さまをお守りします」
その時、廊下の向こうから威厳のある声が響いた。
「紬、会議の時間だ。お前も参加せねばならん」
現れたのは、紬の祖父である織部慈雲だった。八十を超える老人の身体からは、長年記憶を守り続けてきた者だけが持つ重厚な存在感が立ち上っている。
「祖父上」
「夕凪朔夜」慈雲は朔夜を見据えた。「お前の処遇について、一族で話し合いをする。結果によっては、お前との関係を断つことになるかもしれん」
朔夜の胸が締め付けられた。しかし、それは予想していたことでもあった。記憶番人一族にとって、異端の能力者である自分は脅威と映っても仕方がない。
「承知しました」朔夜は静かに答えた。「どのような結論になっても、受け入れます」
紬が何か言いかけたが、慈雲の厳しい視線に遮られた。
会議は織部家の奥座敷で行われた。朔夜は廊下で待つよう言い渡され、紬だけが会議室へと向かった。古い畳の匂いと線香の香りが混じり合う空間に、十数名の長老たちが集まっている。
「では、始めよう」
慈雲の声で会議が開始された。朔夜は障子戸に背中を預け、聞き耳を立てた。
「夕凪朔夜の件だが」年老いた女性の声が響く。「あの者の能力は我らの常識を超えている。影絵として記憶を映し出すなど、前代未聞だ」
「それだけではない」別の男性の声。「黒羽憂との戦いで見せた力は、もはや人間の域を超えている。このまま放置すれば、我らの秘術が外部に漏れる危険性もある」
「しかし」中年の男性が反論した。「彼は記憶を守ろうとして戦っているではないか。黒羽憂の野望を阻止しようとしているのだ」
「それは建前に過ぎぬ」最初の女性が鋭く言い放った。「所詮は部外者。真の目的は分からない」
朔夜の心は沈んでいく。やはり自分は受け入れられないのだろうか。その時、紬の声が響いた。
「長老方、お言葉ですが」
会議室の空気が張り詰めた。紬の声は普段よりも一段と凛としている。
「朔夜さまを疑うことは、我らの使命を疑うことと同じではございませんか」
「紬、何を言っている」慈雲の戒める声。
「祖父上、皆様」紬は臆することなく続けた。「我らは記憶を守る一族。しかし、なぜ記憶を守るのか。それは記憶こそが人の心を結び、愛を育み、希望を紡ぐものだからです。朔夜さまはまさにその体現者ではありませんか」
「だが、彼の能力は」
「能力の形が違うからといって、排除するのですか」紬の声が力強くなった。「それでは我らは記憶を守る者ではなく、ただの既得権益を守る者になってしまいます」
会議室が静寂に包まれた。朔夜は息を詰めて続きを待った。
「紬の言葉には一理ある」慈雲が重々しく口を開いた。「しかし、伝統というものは軽々しく変えられるものではない」
「では、お聞きします」紬の声が震えていた。「明日の夜、黒羽憂が街の記憶を消去しようとした時、我らだけでそれを止められるのですか。朔夜さまの力なしに」
痛いところを突かれた長老たちの間で、ざわめきが起こった。
「それは」
「朔夜さまの母君もまた、記憶を守る者でした」紬は畳み掛けた。「彼女が我らとは違う方法で記憶を守ろうとしたことを、なぜ理解できないのですか」
朔夜の心臓が跳ね上がった。母のことを知っているのか。
「紬、お前まさか」慈雲の声が震えた。
「はい」紬は毅然と答えた。「朔夜さまの母君・夕凪蒼の記録を読ませていただきました。彼女は我らの一族ではありませんでしたが、記憶を愛し、守ろうとした方でした。そして朔夜さまは、その意志を受け継いでいる」
会議室がどよめいた。朔夜は震える手で障子戸に触れた。母の記録があるというのか。
「蒼のことを持ち出すとは」老女の嘆息。「あの女性は確かに特別だった。しかし」
「しかし何ですか」紬の声は涙を含んでいた。「愛する人の記憶を守ろうとして命を落とした女性を、なぜ認められないのですか。そしてその意志を継ぐ息子を、なぜ拒むのですか」
長い沈黙が流れた。朔夜は胸の奥で何かが熱くなるのを感じていた。紬が自分のために、一族の古い慣習に立ち向かってくれている。
「分かった」慈雲がついに口を開いた。「夕凪朔夜の件は保留とする。しかし条件がある」
「どのような」
「明日の夜、黒羽憂との戦いで彼が真に記憶を守る者であることを証明すること。そして」慈雲の声が厳しくなった。「紬、お前がその責任を負うことだ」
「喜んで」紬は即座に答えた。
会議が終わり、長老たちが帰っていく足音が遠ざかった。やがて障子戸が開かれ、紬が現れた。その頬には涙の跡があった。
「紬さん」
「朔夜さま」紬は微笑んだ。「大丈夫です。必ず皆様にご理解いただけます」
「ありがとう」朔夜は深く頭を下げた。「君が僕を信じてくれて」
「当然のことです」紬は朔夜の手を取った。「私たちは共に記憶を守る者同士。そして」
紬の頬が薄紅色に染まった。
「私にとって朔夜さまは、かけがえのない方ですから」
その時、外から異様な気配が伝わってきた。夜空に黒い雲が渦巻き始めている。黒羽憂の力が動き始めたのだ。
いよいよ決戦の時が近づいていた。