母の記憶の水晶から立ち上る暖かな光が、朔夜の心の奥底にまで染み渡っていく。長い間重く圧し掛かっていた罪悪感の鎖が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
だが、その安らぎの時間は長くは続かなかった。
古書店の窓ガラスが、理由もなく震え始めたのだ。空気が重苦しく澱み、まるで世界全体が息を潜めているかのような静寂が辺りを支配する。
「これは…」
椿野老師の顔が険しくなる。朔夜も手にしていた水晶を大切にしまいながら立ち上がった。この不吉な気配には覚えがある。
「黒羽憂…」
朔夜が呟いた瞬間、店の扉が静かに開いた。鈴の音すら響かない、異様な静寂の中での侵入だった。
現れた男は、相変わらず完璧な美貌を湛えていた。しかし、以前とは明らかに何かが違う。その瞳に宿る光が、より深く、より冷たく、そしてより確信に満ちていた。
「お久しぶりですね、夕凪朔夜」
憂の声は穏やかだったが、その奥に潜む意志の強さは鋼のように硬い。彼は店内を見回し、椿野老師に軽く会釈をしてから、再び朔夜に視線を向けた。
「今日は戦いに来たのではありません。お話がしたくて」
「話?」
朔夜は警戒を緩めない。憂の言葉を信用するには、これまでの経験があまりにも重い。しかし、確かに憂からは戦意のようなものが感じられない。代わりに感じるのは、深い疲労と諦めにも似た静けさだった。
「ええ。私の真意を、あなたに伝えたいのです」
憂は店の奥の椅子を示した。「座ってお聞きください。長い話になります」
椿野老師が小さく頷くのを見て、朔夜は慎重に腰を下ろした。憂もまた、向かい側の椅子に座る。
「私がなぜ記憶を破壊するのか。あなたは疑問に思ったことはありませんか」
「…ある」
朔夜は素直に答えた。これまでの戦いの中で、憂の行動に一貫した動機を見出すことができずにいた。単なる破壊欲にしては、その瞳に宿る悲しみが深すぎる。
「私は…」憂が口を開く。その瞬間、彼の完璧な仮面に、わずかな亀裂が走った。「記憶による苦痛を、この世から根絶したいのです」
静寂が店内を支配する。外の街の喧噪さえも、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
「記憶は人を苦しめます」憂は続けた。「失った人への想い。取り返しのつかない過ち。叶わなかった夢。記憶があるからこそ、人は比較し、後悔し、絶望するのです」
憂の瞳に、かすかに炎のような光が宿る。
「もし記憶がなければ、どうでしょう。過去に縛られることなく、人は純粋な現在を生きることができる。比較する対象がなければ、不幸を感じることもない。完全なる現在の中で、人類は真の平和を得られるのです」
朔夜は息を呑んだ。憂の言葉には、狂気じみた理想が込められていた。しかし、それは完全に間違っているとも言い切れない説得力を持っている。
「あなたは…そのために」
「ええ。すべての記憶を消去し、人類を記憶という呪縛から解放する。それが私の使命です」
憂は立ち上がり、窓辺に向かった。霞ヶ丘市の街並みを見下ろしながら、彼は続ける。
「見てください、あの街を。どれだけの人が過去に囚われ、苦しんでいることでしょう。失恋の痛み、家族を失った悲しみ、自分の無力さへの怒り。記憶があるがゆえに、彼らは何度でもその苦痛を味わい直すのです」
「でも…」朔夜が口を開こうとした時、憂が振り返った。その瞳には、深い確信と、同時に計り知れない孤独が宿っていた。
「私自身も、記憶に苦しめられた一人です」
憂の告白に、朔夜と椿野老師は息を呑んだ。
「愛する人を失い、その記憶に何百年も苦しめられ続けました。忘れることができれば、どれほど楽だったでしょう。だからこそ分かるのです。記憶こそが、人類最大の敵なのだと」
朔夜は立ち上がった。憂の言葉に、理解はできても納得はできなかった。
「それは違う」
朔夜の声に、憂が振り返る。
「確かに記憶は苦痛をもたらす。でも、記憶は愛も希望も運んでくれる。僕は今日、母の記憶に救われたんだ」
「一時的な慰めに過ぎません」憂は冷静に答えた。「その記憶もまた、いずれあなたを苦しめることになる。愛する人を失った時、幸せだった記憶こそが最大の苦痛となるのですから」
「それでも…」朔夜は拳を握りしめた。「記憶を失えば、確かに苦痛はなくなるかもしれない。でも、同時に人間らしさも失われてしまう。成長も、愛も、希望も、すべて記憶があってこそ生まれるものだ」
「理想論です」憂は首を振った。「あなたはまだ若い。これから先、記憶がどれだけ重い枷となるか、まだ分からないのでしょう」
憂は再び朔夜に向き直った。その瞳に宿る光は、もはや説得の余地のない確信に満ちている。
「私は明日の夜、想起の間で最後の儀式を行います。霞ヶ丘市のすべての記憶を消去し、この街を記憶なき楽園に変える。それが人類への、私からの贈り物です」
朔夜の血が凍りついた。想起の間は、街全体の記憶の源泉だ。そこで何かが起これば、街の人々すべてに影響が及ぶ。
「そんなこと…させない」
「止めることはできません」憂は静かに微笑んだ。「私は何百年もこの時を待っていたのです。すべての準備は整っています」
憂は扉に向かって歩き始めた。その背中に、朔夜が声をかける。
「なぜ僕に話したんだ?黙ってやればよかったじゃないか」
憂は振り返らずに答えた。
「あなたには選択肢を与えたかったからです。私と共に新しい世界を築くか、それとも…」
彼は振り返り、その瞳に冷たい光を宿らせた。
「古い世界と共に消えるか」
扉が静かに閉まり、憂の気配が店から消えた。残されたのは、重苦しい沈黙だけだった。
椿野老師が深いため息をついた。
「想像以上に深刻な事態じゃな」
「老師…」
「奴の理想は確かに一理ある。しかし、それは人間を人間でなくしてしまう。記憶こそが人間の魂そのものなのじゃから」
朔夜は拳を握りしめた。母の記憶が与えてくれた温もりを思い出す。その記憶があったからこそ、今の自分がある。それを失うなど、考えただけで恐ろしい。
「阻止しなければ」
「ああ。だが、相手は何百年も準備を重ねてきた。一筋縄ではいかんじゃろう」
朔夜は窓の外を見つめた。いつもの霞ヶ丘市の夕景が広がっている。人々が普通に生活し、笑い、時には涙を流している。その全てが、明日の夜に失われてしまうかもしれない。
「紬に知らせよう」朔夜は立ち上がった。「彼女の力も必要だ」
椿野老師が頷く。
「想起の間での戦いになる。十分に準備をせねば」
朔夜は店を出ながら、憂の最後の言葉を反芻していた。選択肢。確かに憂は彼に選択を迫った。しかし、朔夜にとって選択肢は一つしかない。
記憶を、そして記憶と共に生きる人々を守ること。
夕陽が霞ヶ丘市を赤く染める中、最後の戦いへの序章が静かに始まっていた。