川辺での出来事から三日が過ぎても、朔夜の心は複雑に揺れ動いていた。忘却獣を浄化できた事実は確かに希望の光を灯したが、同時に自分が「禁忌の子」であるという重い現実が肩に圧し掛かっている。

 古書店を訪れた朔夜を迎えた椿野老師は、いつもの飄々とした表情の奥に深い慈愛を湛えていた。

「朔夜、少しは気持ちの整理がついたかね」

「まだ、よく分からないんです」朔夜は正直に答えた。「母のことも、自分のことも」

 老師は静かに頷き、奥の部屋へと朔夜を導いた。普段は立ち入ることのない書庫の最奥に、小さな木箱が置かれている。

「実は、君の母親が最期に私に託したものがある」

 朔夜の心臓が激しく鼓動を始めた。母の記憶は曖昧で、病気が進行するにつれて多くのことが失われていった。そんな中で母が残したものがあるとは。

「これは記憶を保存する特別な器だ。君の母、夕凪千織はこの中に大切な想いを封じ込めた」

 老師が木箱を開くと、中から淡い光を放つ水晶のような石が現れた。それは朔夜が使う影絵の道具と似ているが、より深い輝きを宿している。

「触れてみなさい。きっと君にしか見えないものがあるはずだ」

 朔夜は恐る恐る手を伸ばし、水晶に触れた。瞬間、視界が白く染まり、懐かしい声が響いた。

「朔夜、私の大切な息子」

 それは確かに母の声だった。若い頃の、病気に侵される前の清らかな声。朔夜の目に涙が滲む。

 水晶の中から影絵が浮かび上がった。それは朔夜がまだ幼い頃の記憶。母に抱かれながら眠る自分の姿が、柔らかな光に包まれて映し出される。

「あなたは特別な力を受け継いで生まれてきました。でも、それは決して呪いではありません」

 母の声が続く。影絵の中で、母は幼い朔夜の頭を優しく撫でている。

「記憶番人と影絵師、二つの血が混じり合うことを禁忌と呼ぶ者もいるでしょう。けれど私は信じています。あなたこそが、新しい未来を切り開く希望だと」

 次に現れたのは、母が病床で苦しむ姿だった。しかし、その表情に絶望はない。ただ深い愛情と、息子への想いが込められている。

「私の病気は、記憶を守るための代償でした。あなたを守るために、自分の記憶の一部を封印したのです。黒羽一族の追跡から、あなたを隠すために」

 朔夜の息が止まった。母の病気は、自分を守るためだったのか。

「でも後悔はしていません。あなたが生きて、この力を正しく使ってくれるなら、それだけで充分です」

 影絵が変化し、今度は朔夜の知らない記憶が映し出された。母が若い頃、記憶番人として活動していた姿。美しく凛々しい母が、忘却獣と戦い、人々の記憶を守っている。

「私たち記憶番人は、代々記憶を守護してきました。そして影絵師たちは、失われた記憶を蘇らせる力を持っていた。本来なら協力し合うべき存在だったのに、いつしか対立するようになってしまった」

 母の悲しみが朔夜の胸に直接響く。

「あなたには両方の血が流れています。きっと、失われた絆を結び直すことができるでしょう。紬ちゃんと力を合わせて」

 最後に映し出されたのは、現在の朔夜と紬が並んで立つ姿だった。まるで母が未来を見通していたかのように。

「私はもうあなたの傍にはいられません。でも、私の愛は永遠にあなたと共にあります。どうか、自分を責めないで。そして、自分の力を信じて」

 影絵がゆっくりと消えていく。母の声も次第に遠ざかっていく。

「朔夜、あなたは私の誇りです。生まれてきてくれて、ありがとう」

 水晶の光が消えると、朔夜の頬には涙が流れていた。長い間胸の奥に溜まっていた罪悪感が、母の愛の言葉によって洗い流されていく。

「母さん...」

 椿野老師が静かに朔夜の肩に手を置いた。

「千織は立派な記憶番人だった。そして何より、素晴らしい母親だった」

「僕は、母さんを殺したんじゃなかったんですね」

「その通りだ。君の存在は祝福されるべきものなのだよ、朔夜」

 その時、朔夜の手のひらに異変が起きた。長い間失われていた影絵を映し出す力が、微かに戻り始めている。まだ完全ではないが、確実に回復の兆しが見えた。

「能力が...」

「母親の愛が、君の心の枷を解いたのだろう。これで君も本来の力を取り戻せるはずだ」

 老師の言葉に頷きながら、朔夜は改めて母の記憶を胸に刻んだ。自分は愛されて生まれてきた。そして特別な使命を帯びている。

 書店を出ると、紬が待っていた。彼女の表情から、何かが変わったことを察したのだろう。

「朔夜様、なにか...」

「紬、母さんのことを話してくれる? 君が知っている千織さんのことを」

 紬の目が優しく細められた。

「千織様は、私の憧れの存在でした。強くて、美しくて、そして何より慈愛に満ちた方でした」

 二人は並んで歩きながら、母についての記憶を分かち合った。朔夜にとって失われていた母の記憶の欠片が、紬の言葉によって少しずつ蘇ってくる。

「千織様はいつも言っておられました。『記憶は人を縛るものではなく、人を支えるものでなければならない』と」

 夕日が二人の影を長く伸ばす。朔夜の心に、久しぶりに温かな希望が宿った。

 しかし、その平穏な時間は長く続かなかった。街の向こうから、黒い霧のような不吉な気配が立ち上る。忘却獣とは違う、より深い悪意を孕んだ存在の気配。

「黒羽憂...」紬が警戒の声を上げた。

 朔夜は母から受け継いだ愛を胸に、立ちはだかる闇と向き合う覚悟を決めた。今度は逃げない。自分の使命を果たすために。

影絵師と零れ落ちる記憶

37

母の記憶

夜想 遥

2026-04-26

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第37話 母の記憶 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版