椿野老師の言葉が、まるで重い石のように朔夜の胸に沈んでいた。古書店の薄暗い店内で、埃っぽい空気が彼の呼吸を浅くしている。禁忌の子──その響きが頭の中で何度も反響し、朔夜は自分という存在の重さに押し潰されそうになっていた。
「老師、僕は……」
朔夜の声は震えていた。両手を膝の上に置き、視線を床に落としている。影絵師と記憶番人、相容れない二つの血統が自分の中で混じり合っているという現実は、あまりにも重すぎた。
「朔夜よ」椿野老師は静かに口を開いた。「お前が苦しんでいるのは分かる。だが、禁忌と呼ばれることを恐れる必要はない」
「でも、母さんは僕を産んだせいで死んだんでしょう? 僕の存在そのものが……罪なんじゃないですか」
朔夜の瞳に涙が滲んだ。これまで抱えてきた漠然とした罪悪感が、今、明確な形を持って彼を苦しめていた。
「罪ではない」老師の声には静かな威厳があった。「お前の母、夕凪梓は自らの意志で選択したのだ。愛する人との子を産むことを。そして、その子が特別な使命を背負うことも知っていた」
朔夜は顔を上げた。老師の目には深い慈愛が宿っている。
「特別な使命って……」
「記憶番人と影絵師、本来は対立する関係にあったこの二つの血統が、なぜお前の中で混じり合ったのか。それは偶然ではない」椿野老師は立ち上がり、書棚の奥から古い羊皮紙を取り出した。「古い預言がある。『二つの血を持つ者が現れし時、記憶の世界に新たな扉が開かれん』と」
羊皮紙には古い文字で何かが書かれている。朔夜には読むことができなかったが、その文字からは不思議な威厳を感じた。
「僕が……その預言の子だっていうんですか」
「可能性は高い。お前の能力は通常の影絵師のそれを遥かに超えている。そして記憶番人の血が、その力をより深く、より純粋なものにしている」
朔夜は混乱していた。自分が背負うものの大きさが、徐々に明らかになっていく。
「でも、僕は何をすればいいのか分からない。紬のように記憶を守る使命感もないし、父さんのように影絵師として完成された技術も持っていない」
「焦ることはない」老師は朔夜の肩に手を置いた。「お前はまだ若い。これから自分の道を見つけていけばいい」
その時、古書店の扉が静かに開いた。夕日に照らされたシルエットが現れる。紬だった。
「朔夜さん……」
彼女の声には普段の凛とした響きとは違う、どこか心配げな調子があった。朔夜を見つめる瞳に不安が宿っている。
「紬……君は知っていたの? 僕が禁忌の子だってことを」
紬は少しの間沈黙した。そして、ゆっくりと頷いた。
「はい……薄々は感じておりました。朔夜さんの力の性質、そして記憶に対する特別な感受性。それらが通常の影絵師とは異なることを」
「なら、どうして黙っていたんだ」朔夜の声に苦しみが滲んだ。「僕は一人で悩んでいたのに」
「申し訳ございません」紬は深く頭を下げた。「しかし、それを告げる資格は私にはありませんでした。それは朔夜さんご自身が知るべきことでしたから」
朔夜は立ち上がった。胸の奥で複雑な感情が渦巻いている。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよく分からなかった。
「僕は外に出ます」
「朔夜、待て」老師が声をかけたが、朔夜は既に扉に向かっていた。
夕暮れの街を朔夜は当てもなく歩いた。霞ヶ丘市の古い街並みが、いつもとは違って見える。石畳の道、古い街灯、レトロな看板──すべてが記憶に満ちた風景が、今は重く感じられた。
川沿いの公園で朔夜は足を止めた。ベンチに腰を下ろし、流れる水を眺める。水面に夕日が反射して、オレンジ色の光が揺らめいていた。
「僕は何者なんだろう」
独り言が夕風に消えていく。記憶番人の血と影絵師の血、二つの相反する力が自分の中にある。それがもたらす使命とは何なのか。母の死の意味とは。
そんな時、川面に奇妙な影が映った。朔夜は目を凝らす。それは人の形をしていたが、どこか歪んでいる。まるで記憶が壊れかけているかのように。
「忘却獣……」
朔夜は立ち上がった。川の向こう側から、黒い霧のような存在がゆっくりと現れる。それは確実にこちらに向かってきている。
だが、今日の朔夜は逃げなかった。心の奥から何かが湧き上がってくる。怒りとも悲しみとも違う、もっと根源的な感情だった。
「来い」
朔夜は手を伸ばした。影絵の力が自然に発動する。しかし、今回現れた影は今までと明らかに違っていた。記憶番人の血統に由来する光と、影絵師の血統に由来する闇が混じり合って、全く新しい形の影絵を作り出していた。
忘却獣がその影に触れた瞬間、異変が起こった。獣は記憶を食らうのではなく、まるで浄化されるかのように消えていったのだ。
「これが……僕の本当の力?」
朔夜は自分の手を見つめた。禁忌と呼ばれる存在だからこそ持てる力。破壊でも保護でもない、全く新しい記憶との関わり方。
その時、背後から足音が聞こえた。振り返ると、紬が息を切らして走ってくる。
「朔夜さん! 忘却獣の気配を感じて……」
「もう大丈夫だ」朔夜は微笑んだ。それは彼女が見たことのない、どこか大人びた表情だった。「僕は分かり始めた。自分が何者で、何をすべきなのか」
「朔夜さん……」
「禁忌の子かもしれない。でも、それは呪いじゃない。母さんが命をかけて僕に残してくれた可能性なんだ」
川面に月が昇り始めていた。その光が二人を優しく照らしている。朔夜の瞳には、新しい決意の光が宿っていた。
しかし、街の向こうから不吉な笑い声が響いてくる。黒羽憂の気配だった。彼もまた、朔夜の覚醒を感じ取っていた。