巨大な忘却獣の咆哮が霞ヶ丘市の夜空に響き渡った瞬間、朔夜は自分の影絵の能力が完全に失われていることを悟った。手を翳しても、もはや記憶の影は浮かび上がらない。代わりに感じるのは、まるで魂の一部を削り取られたような空虚感だけだった。
「朔夜様!」
紬の声が耳に届く。振り返ると、彼女の瞳に宿るのは心配の色ではなく、確固たる決意の光だった。
「ご案じめさるな。記憶の継承とは、一人が担うものにあらず」
椿野老師が静かに立ち上がった。千二百年の歳月を重ねた賢者の眼差しが、紬へと向けられる。
「紬殿、あなた様の一族に伝わる記憶守護の技の真髄をご存知か」
「はい。記憶を守るは我らが使命。されど、記憶を映し出す術までは」
「それこそが、記憶番人と影絵師の区別なのじゃ。しかし、緊急時においては、その境界は消え失せる」
老師の言葉に、朔夜は眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「記憶投影術の本質は、記憶への深い共感と理解にある。紬殿が持つ記憶への敬愛と守護の心は、まさにその条件を満たしておる」
忘却獣の足音が近づいてくる。時間がない。
「つまり、紬が一時的に僕の代わりを」
「左様。ただし」老師の表情が厳しくなった。「記憶を映し出すことは、己の魂を削る行為でもある。紬殿の身に何かあれば」
「老師」紬が静かに口を開いた。「記憶を守るためならば、この身など」
「だめだ」
朔夜の声が響いた。彼の瞳に宿るのは、これまでにない強い感情だった。
「紬を危険にさらすくらいなら、僕が」
「朔夜様」紬が微笑む。「あなた様がこれまで一人で背負い続けた重荷を、今度は私が共に担わせてください。それが、私たちの絆というものではありませんか」
その時、忘却獣の影が建物の隙間から姿を現した。全長は優に十メートルを超え、その口からは記憶を溶かす黒い霧が立ち上っている。
「もはや議論している時間はない」老師が杖を構えた。「紬殿、右手を朔夜に、左手を私に」
三人が手を繋いだ瞬間、朔夜の身体に温かな力が流れ込んだ。それは紬の記憶守護の力と、老師の千二百年の叡智が混じり合った、新たな記憶の奔流だった。
「これは」
「記憶継承の真の姿じゃ。一人が全てを背負うのではなく、複数の魂が記憶を分かち合う」
紬の手に、淡い光が宿り始めた。
「見えます」彼女の声が震える。「記憶の影が、私の手に」
「無理をしては」朔夜が心配そうに見つめる。
「大丈夫です」紬が振り返った時、その笑顔は今までで一番美しかった。「朔夜様と繋がっていれば、怖いものなどありません」
忘却獣が咆哮を上げて突進してきた。紬が右手を翳すと、朔夜が今まで映し出したことのないほど鮮明な記憶の影絵が夜空に広がった。
それは霞ヶ丘市の人々の幸せな記憶の数々だった。家族団らんの時、恋人同士の約束、友情の証、親子の絆。温かな記憶の光が忘却獣を包み込む。
「この記憶の輝きこそが、私たちが守るべきもの」紬の声に力が宿る。
忘却獣の動きが鈍くなった。記憶を食らう怪物にとって、これほど強く愛された記憶は消化しきれないのだろう。
しかし、紬の身体が小刻みに震え始めた。記憶投影の負荷が彼女の魂を蝕んでいる。
「紬!」
朔夜が彼女の身体を支えた瞬間、不思議なことが起こった。二人が触れ合った手から、新たな光が生まれた。それは朔夜と紬、二人の記憶が融合した、全く新しい形の影絵だった。
「これが、記憶継承の真の力」老師がつぶやく。
朔夜と紬の共同による記憶投影は、忘却獣を完全に浄化した。怪物はゆっくりと光の粒子となって消えていく。その表情には、最期の瞬間、安らぎすら浮かんでいた。
「やりましたね」紬が朔夜の腕の中で微笑む。
「君が」朔夜の声が震える。「君がいなければ、僕は」
「違います」紬が首を振る。「私一人でも、あなた様一人でも、この力は生まれませんでした。二人だからこそ」
老師が静かに拍手した。
「見事じゃった。これが新しい時代の記憶守護の形かもしれぬ」
朔夜は紬を見つめた。彼女の瞳に宿るのは、もはや使命感だけではなく、確かな愛情の光だった。そして、自分の心にも同じ光が宿っていることを、朔夜は確信した。
「紬」
「はい」
「これから先、どんな困難が待っていても、僕たちなら」
「乗り越えられます」
二人が微笑み合った時、遠くの空に新たな影が現れた。それは忘却獣よりもはるかに巨大で、そして人間のシルエットを持っていた。
黒羽憂が、ついに本格的な行動を開始したのだ。
「始まりましたな」老師が杖を握り直す。
「ええ」朔夜が紬の手を握る。「でも、もう一人じゃない」
「私たちの記憶継承の力で、必ずや」
新たな脅威を前に、三人の記憶守護者は立ち上がった。霞ヶ丘市の空に、嵐の予感が漂い始めていた。