想起の間から戻った朔夜と紬を迎えたのは、いつもと違う表情を浮かべた椿野老師だった。古書店の奥座敷で、老師は静かに茶を淹れながら口を開いた。

「朔夜よ、君の能力について話さねばならないことがある」

 老師の声には、普段の飄々とした調子とは異なる重みがあった。朔夜は正座し、紬もまた緊張した面持ちで座り直す。

「実は」と老師は茶碗を置き、「私がここで古書店を営んでいるのは、偶然ではない。君を待っていたのだ」

 朔夜の心臓が早鐘を打った。待っていた、という言葉の意味が掴めずにいると、紬が小さく息を呑む音が聞こえた。

「老師、まさか……」

「そう、紬嬢。君の察する通りだ」

 老師は立ち上がり、書架の奥から一冊の古い書物を取り出した。その表紙には見慣れない文字が刻まれており、朔夜には読むことができない。しかし、なぜかその文字が心の奥底で共鳴するような感覚があった。

「これは『記憶典』と呼ばれる書物だ。記憶の守護者たちが代々受け継いできた、記憶に関するすべての知識が記されている」

 紬の顔が青ざめた。

「記憶典は我が一族でも幻と言われていた書物です。それが老師の手に……」

「君の一族は記憶を守護する使命を持つが、私はそれより古い存在だ」老師は静かに微笑んだ。「私の本当の名は椿野時継。千二百年前から、この世界の記憶を見守り続けてきた」

 朔夜の頭の中で、様々な記憶の断片が蘇った。老師と初めて会った時の違和感、古書に対する異常なまでの知識、そして記憶についての深い理解。すべてが繋がった。

「千二百年……」朔夜は呟いた。「それでは老師は」

「人間ではない、ということかな」老師は苦笑した。「正確には、もう人間ではない、と言うべきだろう。私はかつて、記憶の力によって不老の身体を得た最初の記憶守護者だった」

 夕暮れの光が古書店の窓から差し込み、老師の顔に陰影を作った。その横顔は、朔夜が知っているいつもの優しい表情でありながら、同時に計り知れない年月を感じさせる深い哀しみを湛えていた。

「なぜ、今まで隠していたのですか」紬が震え声で尋ねた。

「君たちに余計な重荷を背負わせたくなかったからだ」老師は記憶典のページをめくった。「しかし、憂の力が強まっている今、すべてを話す時が来た」

 朔夜は老師の言葉を静かに聞いていた。驚きはあったが、なぜか納得できる部分もあった。老師の持つ包容力と知識の深さは、確かに長い年月を生きた者のものだった。

「千二百年前、この国に最初の忘却獣が現れた時、私は仲間たちと共にそれと戦った」老師の声は遠い記憶を辿るように響いた。「しかし、私たち人間の力では忘却獣を完全に倒すことはできなかった。そこで私は禁忌とされていた術を使い、自らの肉体に無数の記憶を封じ込めた」

 朔夜は息を呑んだ。それは想像を絶する苦痛だったに違いない。

「結果として私は不老の身体を得たが、同時に永遠に記憶の守護を続ける運命も背負った。愛する者たちを見送り、時代の変化を見続けながら、次の記憶守護者が現れるのを待ち続けてきた」

「それが、僕だったということですか」

「そうだ、朔夜」老師は優しく頷いた。「君の影絵の能力は、古代の記憶守護者が持っていた『記憶投影術』の現代版なのだ。君こそが、私が千年以上待ち続けた後継者だった」

 紬は涙を浮かべていた。老師の長い孤独を思うと、胸が締め付けられるようだった。

「老師……それほど長い間、お一人で……」

「孤独だったが、絶望はしていなかった」老師は穏やかに微笑んだ。「なぜなら、記憶がある限り、愛する人々は私の心の中で生き続けているからだ。そして何より、いつか君たちのような若者に出会えることを信じていた」

 朔夜は立ち上がり、老師の前に歩み寄った。

「老師、いえ、椿野時継様。僕は……僕はまだ能力を失ったままです。果たして、あなたの後継者として相応しいのでしょうか」

「朔夜よ」老師は朔夜の肩に手を置いた。「能力とは道具に過ぎない。大切なのは、記憶への愛と、それを守ろうとする意志だ。君は想起の間で、能力なしでも記憶と対話できることを証明した。それこそが、真の記憶守護者の証なのだ」

 その時、古書店の外から異様な唸り声が聞こえてきた。三人は身を寄せ合い、窓の外を見た。街の向こうで、巨大な忘却獣の影がゆらめいているのが見えた。

「憂が動き出したな」老師は立ち上がった。「朔夜、君の新しい力を試す時が来た。しかし今度は一人ではない。私も、紬嬢も共に戦う」

「でも老師、危険すぎます」朔夜は慌てて言った。

「千二百年生きてきた私を侮ってはいけないよ」老師は茶目っ気たっぷりに笑った。「まだまだ現役だ」

 紬も決意を込めて頷いた。

「朔夜様、私たちは一緒です。記憶を守るために、共に戦いましょう」

 朔夜は二人を見回し、深く頷いた。能力を失った不安はまだあったが、老師の正体を知った今、新たな希望が心に宿っていた。千年以上の経験を持つ師匠と、強い意志を持つ紬がいれば、きっと新しい道を見つけられるはずだ。

「分かりました」朔夜は決然と答えた。「老師の千二百年の想いを、無駄にはしません」

 老師は満足そうに頷き、記憶典を懐にしまった。そして三人は、再び現れた忘却獣との戦いに向けて、古書店を後にした。夕日が霞ヶ丘市を赤く染める中、新たな戦いの幕が上がろうとしていた。

影絵師と零れ落ちる記憶

33

老師の秘密

夜想 遥

2026-04-22

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第33話 老師の秘密 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版