想起の間の静寂が、朔夜の耳を劈くように響いていた。
忘却獣たちの咆哮も、憂の嘲笑も、そして自分と紬の息遣いすらも聞こえない。まるで世界から音が消え失せてしまったかのような、不気味な静寂だった。
「朔夜様……」
紬の声が遠くから聞こえる。朔夜は重い瞼を持ち上げ、薄っすらと目を開いた。石の床に倒れ込んでいる自分の姿が、ぼんやりと視界に映る。
「大丈夫でございますか」
紬の心配そうな顔が覗き込んできた。彼女の額には汗が浮かび、頬には疲労の影が濃く刻まれている。それでも朔夜を気遣う優しい眼差しは変わらない。
「ああ……なんとか」
朔夜は身体を起こそうとして、激痛に顔を歪めた。先ほどの戦闘で限界を超えた力を使った代償が、全身に重くのしかかっている。
ふと、周囲を見回して異変に気づく。憂の姿も忘却獣たちの姿も見当たらない。想起の間には古い記憶の欠片がぽつりぽつりと漂っているだけだった。
「あいつらは……」
「一時的に退いたようでございます。おそらく朔夜様との力の共鳴を見て、何かを警戒したのでしょう」
紬の説明に頷きながら、朔夜は立ち上がろうとする。しかし足に力が入らず、再びその場にへたり込んでしまった。
「無理をなさってはいけません。今は休息が必要です」
「いや、そんな時間は……」
朔夜が反論しかけた時、右手に違和感を覚えた。いつものように影絵を作ろうと手をかざしたが、指先から滲み出るはずの影が現れない。
「なんだ、これは……」
何度か手を振り、指を動かしてみるが、影は微動だにしない。まるで朔夜の意思を拒絶するかのように、その力は沈黙を保っていた。
「朔夜様の能力が……」
紬も事態を察したようで、青い顔をしている。朔夜は必死に集中し、心の奥底から力を呼び起こそうとした。しかし、いつもそこにあったはずの温かい感覚は、跡形もなく消え失せていた。
「嘘だろう……」
朔夜の声が震えた。影絵を創る能力は、彼にとって自分自身の一部のような存在だった。それが失われるなど、考えたこともなかった。
「きっと一時的なものでございます。あれほどの力を使われたのですから」
紬が慰めるように声をかけるが、朔夜の動揺は収まらない。能力を失った今、憂や忘却獣たちにどう立ち向かえばいいのか。記憶を守ることなど到底不可能に思えた。
椿野老師の古書店に戻った朔夜は、ソファに深く身を沈めていた。紬は茶を淹れながら、時折心配そうに朔夜の様子を窺っている。
「能力の一時的な喪失、か」
事情を聞いた椿野老師は、パイプを咥えながら思案顔を浮かべていた。
「そんなことがあるのですか」
「稀にだがな。能力者が限界を超えた力を使った場合、心身を守るために一時的に能力が封印されることがある。いわば、自己防衛機能のようなものだ」
老師の説明に、朔夜はわずかに安堵した。しかし、それも束の間のことだった。
「ただし、回復の保証はない。場合によっては永続的に失われる可能性もある」
その言葉が朔夜の心に重く響いた。能力を失ったまま、どうやって記憶を守り続けられるのか。自分は紬や記憶たちにとって、もはや無力な存在なのではないか。
「朔夜様」
紬が朔夜の隣に座り、そっと手を重ねてきた。
「能力がおありにならずとも、朔夜様は朔夜様でございます。わたくしたちが戦う理由は、能力の有無ではございません」
「でも、俺に何ができる。影絵も創れない、記憶も映せない。ただの……」
「ただの、などと仰らないでください」
紬の声に、普段にない強さがあった。
「朔夜様がこれまで救ってこられた記憶は、能力だけで成し遂げられたものではございません。朔夜様の優しさ、記憶への深い愛情、そして諦めない心があったからこそです」
その夜、朔夜は一人で想起の間を訪れていた。紬に止められたが、どうしても確かめたいことがあった。
間の奥で、一つの記憶の欠片が弱々しく光っている。それは以前、朔夜が影絵で映し出した幼い姉弟の記憶だった。忘却獣に一部を食い荒らされ、今にも消えそうになっている。
朔夜は手を伸ばし、その欠片に触れた。能力があれば、すぐに修復できたはずの記憶。今の自分には、それすらもできない。
「すまない……」
朔夜が謝罪の言葉を口にした時、記憶の欠片が微かに反応した。朔夜の心に、幼い少年の声が響く。
『お兄ちゃん、怖いよ』
『大丈夫だ。俺がずっと一緒にいてやる』
それは記憶の中の姉弟の会話だった。朔夜は息を呑んだ。能力を使わずとも、記憶の声を聞くことができている。
朔夜は静かに記憶の欠片を手のひらで包み込んだ。温かい想いを込めて、記憶に語りかける。
「君たちの絆は、決して消えることはない。兄妹の愛情は、どんな忘却にも負けはしない」
すると不思議なことに、記憶の欠片の光が少しずつ強くなっていく。朔夜の言葉が、記憶の核心にある愛情を呼び覚ましているかのようだった。
能力に頼らずとも、記憶と向き合う方法がある。朔夜はそのことに、ようやく気づき始めていた。
想起の間から戻る途中、朔夜は街の古い商店街を歩いていた。深夜にもかかわらず、数軒の店に明かりが灯っている。
その一つ、小さな写真館の前で朔夜は足を止めた。ショーウインドウには古い家族写真が飾られており、どれも温かい笑顔に満ちている。
「記憶は、能力者だけが守るものじゃない」
朔夜は小さく呟いた。写真、日記、手紙、そして人々の心の中に刻まれた想い出。記憶を残し、伝えていく方法は無数にある。
ふと、ショーウインドウのガラスに自分の影が映った。能力を失った今でも、朔夜には確かに影がある。その影は、これまでに出会ったすべての記憶の痕跡を宿しているかのように見えた。
「朔夜様」
振り返ると、紬が心配そうな顔で立っていた。
「探しましたよ。お一人で危険な場所へ行かれては」
「紬……すまない。でも、少しだけわかった気がするんだ」
朔夜は写真館のショーウインドウを指差した。
「記憶を守る方法は、能力だけじゃない。人の心や、形あるものに託された想いも、同じように大切な記憶なんだ」
紬の表情が和らいだ。
「そうでございますね。記憶は生きとし生けるもの全てが紡ぎ出すものでございますから」
二人が古書店に戻ろうとした時、街の向こうから不気味な気配が漂ってきた。忘却獣の群れが、再び姿を現したのだ。
「また来たか……」
朔夜は拳を握りしめた。能力は戻らない。それでも、記憶を守りたいという想いは変わらなかった。
「朔夜様、今は退きましょう。能力のない状態では危険すぎます」
「いや、待ってくれ」
朔夜は忘却獣たちを見つめながら、先ほど想起の間で感じた感覚を思い出していた。記憶と対話し、その核心にある想いに触れることができた感覚を。
「もしかすると、能力がなくても戦う方法があるかもしれない」
朔夜の瞳に、新たな決意の光が宿った。それは能力に頼らない、もう一つの可能性への扉が開かれた瞬間だった。
忘却獣たちの咆哮が夜空に響く中、朔夜は一歩前に踏み出した。失われた力の代わりに、彼が見つけつつある新しい力を試すために。