想起の間の空気が一瞬にして氷のように冷たくなった。朔夜の影絵は瞬時に消失し、田島老人の記憶の少年も驚愕の表情を浮かべたまま薄れていく。地下空間に響く足音は複数で、その全てが異質な響きを持っていた。
「まさか、ここまで……」
紬の声に震えが混じる。記憶番人の一族にとって、想起の間は最も神聖で守られるべき場所だった。それが今、侵犯されようとしている。
「朔夜殿、急ぎ奥へ」
紬が朔夜の手を引こうとした瞬間、通路の向こうから黒羽憂の姿が現れた。その後ろには見たこともない巨大な忘却獣が続いている。蜘蛛のような脚を持つ漆黒の化け物、鳥の翼を広げた歪な人型、そして無数の触手を蠢かせる球体状の怪物。
「ようやく見つけた。記憶の根源たる場所を」
憂の声は想起の間の石壁に反響し、不気味な残響を残す。彼の瞳は暗闇の中でも妖しく光り、その唇には冷酷な微笑が浮かんでいた。
「黒羽憂……なぜここを知っている」
朔夜が前に出ると、憂は愉快そうに笑った。
「君の影絵の力がここに繋がっていることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。記憶を映し出す能力の源泉は、必ずやここにあると思っていたが、予想以上に素晴らしい場所だ」
想起の間の壁に刻まれた無数の記憶の欠片が、憂の視線を受けて微かに震えている。千年、二千年という時を超えて保存されてきた人々の想いが、今まさに危険に晒されていた。
「ここにある記憶を全て消し去れば、この街の人々は完全に過去から解放される。素晴らしいことではないか」
「それは解放ではなく破壊です」
紬が憂の前に立ちはだかる。その手には既に記憶番人の証である光る短剣が握られていた。
「記憶なくして人は人たり得ません。あなたのしていることは、魂の殺戮に等しい行為です」
「魂の殺戮?」憂が嘲笑う。「記憶に縛られ、過去の痛みに苦しみ続ける方がよほど残酷だと思うがね。君たちのような記憶に囚われた者には理解できないかもしれないが」
その時、配下の忘却獣たちが一斉に動き始めた。蜘蛛型の怪物が壁を這い上がり、鳥型の化け物が空中に舞い上がる。触手の球体は地面を滑るように移動し、それぞれが異なる方向から朔夜と紬に迫っていく。
「紬、壁の記憶に触れるな!」
朔夜が叫んだ瞬間、最初の攻撃が始まった。蜘蛛型の忘却獣が壁に刻まれた記憶の欠片に脚を伸ばす。その瞬間、古代の記憶が悲鳴のような音を立てて消失していく。
「くっ……」
朔夜は咄嗟に影絵の力を発動させた。しかし、想起の間という特殊な空間では、彼の能力も通常とは違う現れ方をする。映し出される影は立体的で、まるで実体を持つかのような質感を帯びていた。
朔夜の影絵から生まれた黒い鳥の群れが忘却獣に向かって飛翔する。影の鳥たちは忘却獣の動きを一時的に封じたが、すぐに霧散してしまう。
「朔夜殿、単独で戦うのは危険です」
紬が朔夜の隣に並び、短剣から放たれる光で周囲を照らす。その光は記憶を守護する力を帯びており、忘却獣たちは少し距離を置いた。
「記憶の光で押し返すことはできても、完全に倒すことは困難です。数が多すぎます」
確かに、憂が連れてきた忘却獣の数は尋常ではなかった。想起の間の通路という限られた空間が、逆に彼らを有利にしている。朔夜と紬は後退を余儀なくされた。
「奥の記憶保管庫まで下がりましょう。そこなら古代の結界が」
紬の提案に朔夜は頷いたが、その時、鳥型の忘却獣が頭上から急降下してきた。朔夜は反射的に影の盾を作り出すが、想起の間の濃密な記憶の気配に影響され、盾の形が不安定になる。
「朔夜!」
紬が短剣を振るい、光の刃で忘却獣を切り払った。しかし、その反動で彼女の体勢が崩れる。
「危ない」
朔夜が紬を支えた瞬間、二人の手が触れ合った。その瞬間、不思議な現象が起こる。朔夜の影絵の力と紬の記憶守護の力が共鳴し、想起の間全体に金色の光が広がった。
「これは……」
憂が眉をひそめる。光に触れた忘却獣たちが苦悶の声を上げ、一時的に動きを止めていた。
「二つの力が組み合わさると、こうなるのか」
朔夜も驚いている。彼の影絵が紬の光と混じり合い、記憶を映し出すだけでなく、記憶そのものを強化する力を生み出していた。
「今です、朔夜殿」
紬が朔夜の手を強く握る。二人の力の共鳴はさらに強くなり、想起の間の壁に刻まれた古い記憶たちが呼応するように輝き始めた。
「面白い。だが、それがどれほど続くかな」
憂が手を上げると、さらに巨大な忘却獣が現れた。今度の怪物は人の形をしているが、その体は記憶を食らい尽くした空虚そのもので構成されている。
「記憶喰らいの上位種……まさか、そこまで」
紬の顔が青ざめる。記憶喰らいの上位種は、記憶番人の一族でも滅多に遭遇することのない危険な存在だった。
上位種の忘却獣が一歩前に進むたび、周囲の記憶が音もなく消失していく。朔夜と紬の共鳴の光ですら、その存在の前では弱々しく見えた。
「さあ、君たちの美しい記憶も、この場所に眠る全ての過去も、等しく無に還そう」
憂の声が響く中、朔夜は紬の手をさらに強く握った。二人の絆が生み出す力だけが、今この場所を守る唯一の希望だった。
しかし、体力の消耗は激しく、このまま戦い続けることができるかは分からない。想起の間の奥から響く古代の記憶たちの囁きが、まるで助けを求めているようにも聞こえていた。