朔夜は息を深く吸い込んだ。忘却の森で黒羽憂との対峙を終え、霞ヶ丘市の中心部に戻ってきてから三日が過ぎていた。椿野老師の古書店「想起堂」の奥の間で、朔夜は一人の少年と向き合っている。

 少年の名前は田中慎太郎。十二歳になったばかりの彼の瞳には、年齢に似つかわしくない深い影が宿っていた。両親に連れられてこの店を訪れた慎太郎は、一ヶ月前から突然記憶の一部を失っているという。

「慎太郎くん」朔夜は優しく声をかけた。「怖がらなくていいよ。僕はただ、君の記憶を少し見せてもらうだけだから」

 慎太郎は小さく頷いたが、その手は膝の上でぎゅっと握りしめられていた。朔夜は少年の緊張を察し、まずは軽い影絵から始めることにした。指先で小さな鳥の形を作り、壁に映し出す。影の鳥がひらひらと羽ばたく様子を見て、慎太郎の表情が少しだけ和らいだ。

「上手だね」椿野老師が縁側から声をかける。「朔夜の影絵は、見る人の心を軽やかにする不思議な力があるのじゃよ」

 紬も隣の部屋から静かに見守っている。彼女の存在が朔夜に安心感を与えていた。

 朔夜は慎太郎の手を優しく取った。「少しずつでいいから、思い出してみよう。一ヶ月前、何があったか覚えてる?」

 慎太郎は首を横に振る。「わからない。でも、とても怖いことがあったような気がするんだ。夜、眠ろうとすると、何かが追いかけてくるような気がして」

 朔夜は慎太郎の手から、封印された記憶の断片を感じ取った。それは自己防衛本能によって深く埋められた、痛々しい記憶だった。無理に掘り起こせば、少年の心により深い傷を与えてしまう可能性がある。

「大丈夫」朔夜は慎太郎の目を見つめて言った。「君の心が準備できるまで、急がなくていいよ。僕が一緒にいるから」

 朔夜は壁に向かって手をかざした。慎太郎の記憶の表層から、穏やかな思い出を選んで影絵にしていく。公園でお母さんと遊んだ日、学校の友達と笑い合った午後、お父さんに本を読んでもらった夜。

 温かい記憶の影絵が次々と壁に映し出される中で、慎太郎の表情が徐々に明るくなっていく。朔夜は注意深く少年の心の動きを感じ取りながら、封印された記憶の周辺を探っていった。

 そのとき、慎太郎が小さく呟いた。「あの日、僕は一人で公園にいた」

 朔夜は手を止めた。慎太郎が自発的に記憶を語り始めたのだ。

「続けて」朔夜は励ますように言った。「君のペースでいいから」

「暗くなってから、変な人が近づいてきたんだ」慎太郎の声が震えている。「その人は、僕に何かを見せようとして...それから、よく覚えてない」

 朔夙は慎太郎の記憶に、忘却獣の気配を感じ取った。しかし、それは黒羽憂が操る強力な忘却獣ではない。野良の小さな忘却獣が、偶然慎太郎に接触してしまったのだろう。

「慎太郎くん」朔夜は少年の肩に手を置いた。「君は何も悪くない。ただ、運悪く怖いものに出会ってしまっただけだ」

 朔夜は慎重に影絵を操作し、封印された記憶に光を当てていく。忘却獣との遭遇の記憶が蘇ってくると、慎太郎は体を震わせた。

「怖い...」慎太郎が泣き声で呟く。

「大丈夫、もうその怖いものはいない」朔夜は優しく声をかけながら、影絵で慎太郎を包み込むような温かい光を作り出した。「君は一人じゃない。お父さんもお母さんも、君を愛してる。そして僕も、君を守るから」

 朔夜の影絵が、慎太郎の心の傷を優しく包んでいく。恐怖の記憶は消えないが、それを受け入れる強さと、周囲の愛情に気づく力を与えていく。

 慎太郎の涙が止まり、代わりに安堵の表情が浮かんだ。「ありがとう、お兄さん。なんだか、とても軽い気持ちになった」

 朔夜は微笑んだ。「記憶は時には辛いものだけど、君の大切な一部だ。怖い記憶も、君が強くなるための経験になるよ」

 椿野老師が部屋に入ってきて、慎太郎の頭を優しく撫でた。「よく頑張ったのう。朔夜も、見事じゃった」

 紬も姿を現し、慎太郎に向かって深々とお辞儀をした。「記憶を取り戻す勇気をお持ちになったあなたを、心より尊敬いたします」

 慎太郎は照れたように笑い、両親の待つ店先へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、朔夜は深い満足感を覚えていた。

 記憶を破壊することばかりに意識を向けていた最近だったが、記憶を癒し、人の心を軽やかにすることこそが、自分の能力の本当の意味なのかもしれない。

「朔夜」紬が静かに声をかけた。「あなたの影絵を見ていると、記憶がこんなにも美しいものだということを改めて感じます」

「君がいてくれるから、僕は安心して能力を使える」朔夜は紬を振り返った。「ありがとう、紬」

 椿野老師が二人の様子を見て、意味深な笑みを浮かべた。「ほほう、若い二人にとって、記憶を守るということの意味がまた一つ深まったようじゃな」

 夕日が古書店の窓から差し込み、三人の影を壁に映し出している。朔夜はその影を見つめながら、慎太郎との出会いが自分にとって大切な記憶になることを確信していた。

 しかし、その時朔夜の胸に、かすかな不安がよぎった。黒羽憂は忘却の森での敗北を、このまま受け入れるだろうか。きっと彼は、より強力な忘却獣を連れて現れるに違いない。

 そしてその予感は、数日後に現実となる。霞ヶ丘市の中心部に、巨大な忘却獣の影が立ち上がることになるのだった。

影絵師と零れ落ちる記憶

26

心の鍵

夜想 遥

2026-04-15

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第26話 心の鍵 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版