朔夜の言葉が想起の間の空気に溶け込むように響いた後、憂の表情に微かな変化が訪れた。硬く閉ざされていた瞳に、ほんの一瞬だけ迷いの色が宿る。
「記憶の真の意味、か」憂が呟いた。「それを知りたければ、この間の最深部に行くがいい。そこには古代から記憶を守り続ける者がいる。お前たちなら、きっと会えるだろう」
そう言い残すと、憂の姿は影のように薄れ、やがて完全に消え去った。残されたのは、静寂と、空気中に漂う微かな哀愁だけだった。
「朔夜さん」紬の声が震えていた。「今の方の記憶、あまりにも……」
「ああ」朔夜は頷いた。「愛する人を記憶に奪われた痛み。それが彼を記憶の敵にしてしまった」
二人は想起の間の奥へと歩みを進めた。石造りの回廊は次第に古い様相を呈し、壁面に刻まれた文様も、見たこともないような古代の文字へと変化していく。空気そのものが重厚になり、数千年の時を経た記憶の重みを感じさせた。
やがて、最深部と思われる場所に辿り着いた。そこは円形の大広間で、天井は見えないほど高く、無数の光る結晶が宙に浮かんでいる。その結晶一つ一つが、まるで呼吸をするように淡く明滅していた。
「これは……」紬が息を呑んだ。
「記憶の原石だ」
突然響いた声に、二人は振り返った。広間の中央に、いつの間にか一人の老人が立っていた。白い髭を胸まで垂らし、深い皺に刻まれた顔には、永い歳月を物語る穏やかな威厳が宿っている。
「お待ちしておりました、夕凪の血を引く者よ、そして織部の末裔よ」老人は深々と頭を下げた。「私は想起の間の最古の番人、時雨と申します」
朔夜は老人の前に膝をついた。この人物から発せられる存在感は、椿野老師をも遥かに凌駕していた。
「時雨様」紬も同じように膝をつく。「私たち、記憶を巡る戦いの中で多くのことを学んできましたが、まだ理解できないことがあります」
「それは当然のことです」時雨は優しく微笑んだ。「記憶とは、人の一生では理解しきれないほど深く、複雑なもの。だからこそ、私たちのような番人が存在するのです」
老人は宙に浮かぶ記憶の結晶の一つに手を翳した。結晶は暖かな光を放ち、その光は影絵のように壁面に映像を描き出す。
「夕凪朔夜よ。あなたの影絵の能力は、実は我々番人の血を受け継いだもの。あなたの一族は、古代から記憶を守護する使命を担ってきたのです」
壁面に映し出されたのは、古代の霞ヶ丘の風景だった。現在とは全く異なる、神秘的で美しい都市。そこで人々の記憶を影絵として映し出し、大切な記憶を後世に伝える者たちの姿があった。
「夕凪の一族は、代々記憶を可視化する能力を持ち、人々の大切な思い出を保存してきました。しかし時が経つにつれ、その使命は忘れられ、能力も薄れていった」
朔夜は映像に見入った。自分と同じように手から影を操る古代の人々。彼らの表情には、深い使命感と誇りが宿っている。
「では、私が記憶に惹かれるのは……」
「血に刻まれた使命ゆえです」時雨が頷く。「そして織部紬さん。あなたの一族もまた、古代から記憶番人を支えてきた守護者の血筋。織部の一族は、記憶を物理的な脅威から守り、番人たちが安全に仕事を行えるよう護衛してきたのです」
紬の瞳に驚きが宿る。次の映像では、戦士のような装いをした女性たちが、忘却獣らしき影の怪物と戦っている姿が描かれていた。
「私たちの祖先が……」
「そうです。忘却獣との戦いは今に始まったことではない。古代から続く、記憶を巡る永遠の戦いなのです」
時雨は再び別の結晶に触れた。今度映し出されたのは、美しい女性と青年の姿だった。女性は織部の紋章を、青年は夕凪の家紋を身に着けている。
「あなた方の祖先もまた、深い絆で結ばれていました。記憶を守る者と、記憶を護る者。二つの血筋が再び出会ったのは、偶然ではありません」
朔夜と紬は顔を見合わせた。運命という言葉では片付けられない、深い繋がりを感じる。
「時雨様」朔夜が口を開いた。「黒羽憂という男が記憶を破壊しようとしています。彼もまた、記憶に深く関わる者のようですが」
老人の表情が曇った。「憂……彼もまた、番人の血を引く者です。しかし愛する人を記憶の重圧で失い、記憶そのものを憎むようになってしまった」
「番人の血を?」紬が驚く。
「記憶番人の一族は、夕凪、織部、そして黒羽。三つの血筋から成っていました。黒羽の一族は記憶の調律者として、記憶の流れを制御する能力を持っていた。だが、その力は記憶を破壊することもできてしまうのです」
朔夜の胸に複雑な感情が渦巻いた。憂への憎しみが、理解と哀れみに変わっていく。
「彼を救う方法はありませんか」
「それは、あなた方次第です」時雨の瞳に希望の光が宿った。「三つの血筋が再び一つになった時、記憶は新たな形で守られるでしょう。憂の心の傷を癒やし、記憶の真の美しさを思い出させることができるのは、同じ番人の血を引くあなた方だけです」
宙に浮かぶ記憶の結晶たちが、一斉に暖かな光を放った。その光に包まれて、朔夜は自分の使命を明確に感じ取った。記憶を守ることは、人の心を守ること。そして紬と共に歩むことで、その使命は完遂される。
「私たち、必ず憂さんを救ってみせます」紬の声に強い決意が込もられていた。
時雨は満足そうに微笑んだ。「その意志があれば、きっと道は開けます。古代の番人たちも、あなた方を見守っているでしょう」
老人の姿が次第に透明になっていく。役目を終えた番人は、記憶の彼方へと帰っていこうとしていた。
「最後に一つ」時雨の声が遠くなる。「記憶の最深部、『零れの間』に向かいなさい。そこで憂は最後の戦いを挑んでくるでしょう。そして、そこであなた方の真の力が試されるのです」