母の記憶に現れた未来への決意を胸に、朔夜は黒羽憂を見据えた。影絵師としての力が、これまでにない確かさで体の奥底から湧き上がってくる。
「どれだけ絶望的な未来を見せられても、俺は今を生きる。記憶に囚われるのではなく、記憶とともに歩んでいく」
朔夜の言葉に、憂の表情が微かに揺れた。その瞬間、想起の間の空気が変わる。憂を取り巻く暗い影が、まるで息をするように脈動し始めたのだ。
「記憶とともに歩む、か」憂が呟く。「愚かな。記憶というものがどれほど残酷で、どれほど人を苦しめるか、お前は何も分かっていない」
紬が朔夜の隣で身構える。彼女の手に握られた守護の札が、青白い光を放っていた。
「憂様のお言葉ですが」紬が凛とした声で答える。「記憶は確かに時として苦痛をもたらします。しかし、それ以上に人を支え、導く力を持っているのです」
憂が嘲笑を浮かべようとしたその時、彼の周囲の影が突然激しく揺らめいた。まるで制御を失ったかのように、影の中から様々な映像の欠片が漏れ出す。
朔夜は息を呑んだ。影の隙間から垣間見えるのは、憂自身の記憶の断片だった。幼い憂が誰かの手を握って微笑んでいる光景。温かな日差しの中で本を読む穏やかな表情。そして——突如として全てが暗転し、絶望に歪む顔。
「やめろ」憂が鋭く呟く。影の乱れは収まったが、その瞳には一瞬、深い悲しみが宿っていた。
椿野老師が静かに口を開く。
「憂よ、お前もまた記憶に苦しめられた者なのだな」
憂は老師を睨みつける。しかし、その視線には先ほどまでの冷酷さとは異なる、何か複雑な感情が混じっていた。
「黙れ、老いぼれ。過去など、どうでもいい」
「本当にそう思うなら」椿野が続ける。「お前は記憶を破壊することに、これほど執着しはしまい。記憶を憎むということは、つまりそれに囚われているということだ」
憂の表情が険しくなる。だが同時に、朔夜には彼の中で何かが揺らいでいるのが感じ取れた。
「朔夜」紬が小さく囁く。「憂様の影に、強い悲しみを感じます。まるで、大切な何かを失った時の記憶が……」
朔夜は頷く。彼にも同じものが感じられていた。憂を包む暗い影は、憎悪だけでできているのではない。その奥底には、深い喪失感と痛みが渦巻いている。
「憂」朔夜が一歩前に出る。「あんたは何を失ったんだ?」
その問いかけに、憂の体が僅かに震えた。
「失う?」憂が苦い笑いを浮かべる。「失ったのではない。奪われたのだ。記憶によって、大切なものを全て奪われた」
想起の間に重い沈黙が降りる。憂の言葉には、これまで聞いたことのない生々しい痛みが込められていた。
「記憶は美しいものだと、お前たちは言う」憂が続ける。「人を支え、導くものだと。だが、記憶は時として人を狂わせ、現実を見えなくする毒でもあるのだ」
憂の周囲の影が再び揺らめく。今度は彼が意図的にそうしているようだった。影の中に、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
「この人は——」朔夜が目を凝らす。影の中の人影は女性のようで、憂に向かって優しく手を伸ばしている。
「見るな」憂が激昂する。しかし影の映像は消えることなく、むしろより鮮明になっていく。女性の顔立ちが見えてくる。美しく、慈愛に満ちた表情をしている。
紬が息を呑む音が聞こえた。
「あの方は——記憶の番人の装束を」
確かに、影の中の女性は紬と同じような白い衣装を身にまとっていた。記憶を守護する一族の証である。
「そうだ」憂が絞り出すような声で答える。「彼女は記憶の番人だった。そして——」
憂の言葉が途切れる。影の映像が激しく歪み、女性の姿が苦悶に満ちた表情に変わる。そして、その体が徐々に透明になっていく。消えゆく女性の姿を、若い憂が必死に抱きしめようとしている。
「記憶に殉じた」憂が呟く。「彼女は記憶を守ろうとして、自分自身を犠牲にした。記憶の番人としての使命を果たすために」
朔夜の胸に、重い理解が落ちてくる。憂の記憶破壊への執念は、愛する人を記憶に奪われた復讐だったのだ。
「だから、お前たちの偽善が許せない」憂が朔夜と紬を見つめる。「記憶を美しいものだと言い、守るべきものだと説く。だが記憶は人から大切なものを奪っていく。愛する者さえも」
紬が震え声で答える。
「それでも——それでも記憶は必要なのです。確かに記憶は時として残酷です。でも、失われてしまえば、その人が生きた証も、愛した想いも、全て無に帰してしまうのです」
憂の瞳に、一瞬炎のような怒りが宿る。
「生きた証だと?」憂が笑う。「彼女の記憶は確かに残った。だが彼女自身は消えた。記憶だけが残って、何の意味がある?」
朔夜は言葉を失う。憂の苦しみが、痛いほど理解できた。愛する人を失った悲しみ。その上で、失った人の記憶だけが残り続ける矛盾。記憶を憎む気持ちも、破壊したいと願う衝動も、全て理解できてしまう。
椿野老師が深い溜息をつく。
「憂よ、お前の痛みは理解できる。だが、記憶を破壊することで彼女が戻ってくるわけではない」
「分かっている」憂が静かに答える。「だが、少なくとも他の誰も、同じ苦しみを味わうことはなくなる」
想起の間に再び沈黙が流れる。憂の過去が明かされたことで、彼への見方が大きく変わっていた。単純な悪ではなく、深い愛と喪失から生まれた歪みだった。
朔夜は憂を見つめる。その瞳の奥に、まだ消えていない愛情と痛みを感じ取る。憂は記憶を憎んでいるが、同時に愛する人の記憶を手放すこともできずにいるのだ。
「俺には、あんたの気持ちが分かる」朔夜が口を開く。「愛する人を失う苦しみも、その人の記憶だけが残る辛さも」
憂が朔夜を見る。その瞳に、僅かな動揺が走った。
「だが」朔夜が続ける。「その記憶があるからこそ、俺たちは愛することを学んだんじゃないか。痛みも含めて、それが記憶の本当の意味なんじゃないかと、俺は思う」
憂の表情が複雑に変化する。怒り、悲しみ、そして——希望への渇望。
「きれいごとを言うな」憂が呟く。しかし、その声には先ほどまでの鋭さがない。
影の映像が再び現れる。今度は憂と女性が並んで歩いている光景だった。二人とも穏やかに微笑んでいる。
「彼女の名前は」憂が小さく呟く。「雪菜といった」
その名前を口にした時、憂の表情に一瞬、深い愛情が浮かんだ。朔夜は確信する。憂はまだ、愛することを忘れていない。
だが次の瞬間、憂の表情は再び冷酷なものに戻る。
「だが、もう遅い。私は記憶を破壊すると決めた。お前たちを止めることはできない」
憂の周囲に忘却獣たちが姿を現す。これまで以上に巨大で、禍々しい存在感を放っていた。
「憂」朔夜が最後の問いかけをする。「雪菜さんは、あんたが記憶を破壊することを望んでいるのか?」
憂の動きが止まる。忘却獣たちも、まるで主人の迷いを感じ取ったかのように動きを緩める。
想起の間に緊張が満ちる。憂の答えが、この戦いの行方を大きく左右することになりそうだった。