廃工場での面会まで、時間はあまり残されていなかった。雨宮蒼は桜庭瑞希と共に、美咲の同僚だった研究員から聞き出した情報を頼りに、夜の研究所へと向かった。

 「本当にこんなことをして大丈夫なの?」

 瑞希の声に不安の色が滲んでいる。月明かりに照らされた彼女の横顔は青白く、普段の自信に満ちた表情とは違って見えた。

 「他に方法がない」蒼は短く答えた。「美咲の記憶が改竄されている以上、研究所に何らかの証拠が残っているはずだ」

 二人が向かったのは、都心から少し離れた場所にある民間の記憶技術研究所だった。表向きは医療用の記憶治療技術を開発している施設だが、美咲が語った内容からすると、もっと危険な実験が行われている可能性が高い。

 研究所の建物は、夜の闇に沈んでひっそりと佇んでいた。警備システムの赤いランプが規則正しく点滅している。

 「警備は?」瑞希が囁いた。

 「記憶スキャンで確認した限りでは、夜間は自動警備システムのみ。人的警備はない」蒼は懐から小さなデバイスを取り出した。「これで十分だろう」

 それは田中刑事から密かに借りた警察仕様のハッキングツールだった。正確には借りたのではなく、田中が「うっかり」置き忘れていったものだが。

 侵入は思いのほか簡単だった。セキュリティシステムを迂回し、裏口から建物内に入る。廊下は薄暗く、非常灯だけが足元を照らしている。

 「美咲のオフィスはこっち」瑞希が先頭に立って歩いた。彼女は以前、この研究所を見学したことがあるという。

 美咲のデスクは整理整頓されており、一見すると何の変哲もない研究員のものに見えた。だが蒼は机の引き出しを注意深く調べ、隠しフォルダの存在を発見した。

 「これは」瑞希が息を呑んだ。

 パソコンの画面には、膨大な実験データが表示されていた。記憶操作に関する詳細な研究記録、そして何より衝撃的だったのは被験者のリストだった。

 「このコード番号、見覚えがある」蒼の指が震えた。「僕の記憶探偵としての登録番号と一致している」

 画面をスクロールすると、さらに多くの名前とコード番号が現れた。その中には、最近蒼が担当した事件の関係者たちの名前も含まれていた。

 「まさか、この人たちすべてが」

 「実験の被験者だったということか」蒼の声は低く沈んでいた。「記憶を操作され、都合の良い証言をするように仕組まれていた」

 瑞希がファイルをUSBメモリにコピーしながら呟いた。「でも、なぜこんなことを?何の目的で?」

 その時、廊下から足音が聞こえてきた。二人は身を寄せ合い、息を殺した。足音は次第に近づいてくる。

 「予想より早く気づかれたな」蒼が小声で言った。

 足音は美咲のオフィスの前で止まった。ドアノブがゆっくりと回る。

 「もう少し時間が必要」瑞希が焦った声で言った。「データのコピーがまだ完了していない」

 蒼は記憶探偵としての能力を研ぎ澄ませた。ドアの向こうにいる人物の記憶の断片を読み取ろうとする。だが、奇妙なことに何も感じ取ることができなかった。まるで記憶が遮断されているかのように。

 「記憶ブロッカーを装着している」蒼が気づいた。「相当用心深い相手だ」

 ドアが静かに開かれた。暗闇の中に人影が現れる。懐中電灯の光が室内を照らし、二人の姿を捉えた。

 「やはり来たか、雨宮蒼」

 聞き覚えのある声だった。だが、その声の主が誰なのか、蒼にはすぐには思い出せなかった。記憶喪失の影響で、過去の知り合いの顔と声が曖昧になっているのだ。

 「君は」蒼がゆっくりと立ち上がった。

 「忘れてしまったのか。それとも、忘れたふりをしているのか」男の声に皮肉が込められていた。「まあ、どちらでも構わない。今日は君に渡すものがある」

 男は小さな記憶カードを机の上に置いた。

 「これは何だ?」

 「君の失われた記憶の一部だよ。五年前、君と僕、そして黒木竜也の間に何があったのか」男は振り返ることなく言った。「真実を知りたければ、それを見ることだ。ただし、覚悟はしておけ。知ってしまえば、もう元には戻れない」

 「待て」蒼が声をかけたが、男はすでに姿を消していた。

 瑞希がようやくデータのコピーを完了させた。「蒼、これ」彼女は記憶カードを見つめていた。「どうするの?」

 蒼は記憶カードを手に取った。小さなデバイスの中に、自分の失われた過去が封じ込められている。それは長い間探し求めてきたものだった。だが、なぜか恐怖を感じていた。

 「今ここで見るわけにはいかない」蒼がカードをポケットにしまった。「まずは安全な場所に避難しよう」

 二人は急いで研究所を後にした。外に出ると、夜風が頬を撫でていく。だが蒼の心は重かった。

 車の中で、瑞希が盗み出したデータを確認した。被験者リストには、驚くべき名前が含まれていた。政治家、実業家、そして警察関係者まで。彼らすべてが記憶操作の対象とされていたのだ。

 「これは単なる犯罪じゃない」瑞希が震え声で言った。「社会全体を操作しようとしている」

 蒼は黙ったまま夜の街を見つめていた。記憶カードの重みが、ポケットの中で異様に重く感じられる。真実を知ることへの期待と恐怖が、胸の奥で渦巻いていた。

 そして翌日、約束の廃工場で待っているという人物は誰なのか。黒木竜也なのか、それとも別の誰かなのか。

 蒼の携帯電話が震えた。メッセージが届いている。

 『記憶カードの内容を確認したら、必ず一人で来い。瑞希を巻き込むな。さもなければ、すべてが無駄になる』

 送信者は不明だった。だが蒼は、もう後戻りできないところまで来てしまったことを理解していた。明日の夜、廃工場で待つものが何であれ、それと向き合わなければならない。

 手の中の記憶カードが、運命への扉のように思えてならなかった。

記憶探偵と消えた昨日

9

研究所への侵入

水無月透

2026-03-29

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