記憶カードを見つめながら、蒼は深い溜息をついた。夜明けの光が差し込む自分のアパートの窓辺で、あの謎の男の言葉が頭の中を何度も巡っている。
「失われた記憶の中に、真実が眠っている」
しかし、今はそれよりも優先すべきことがあった。昨夜発見した被験者リストの調査だ。蒼は瑞希に連絡を取り、研究所で落ち合うことにした。
午前十時、記憶技術研究所の瑞希の研究室。二人は被験者リストを詳細に分析していた。
「やはり、ここに載っている人たちの多くが記憶に関する研究者ね」瑞希がモニターを指差しながら言った。「大学教授、企業研究者、政府系機関の職員…みんな記憶技術の発展に関わってきた人たち」
「それで、彼らの現状はどうなんだ?」
「それが問題なの」瑞希の表情が曇った。「リストにある二十三名のうち、十一名が過去二年間で死亡している」
蒼の背筋に冷たいものが走った。「死因は?」
「表面上は様々よ。心筋梗塞、脳梗塞、交通事故、自殺…でも」瑞希は画面を切り替えた。「死亡時期を見て。全員が記憶操作技術の危険性について論文を発表したり、研究の中止を訴えたりした直後に亡くなっている」
モニターに表示されたタイムラインを見て、蒼は息を呑んだ。あまりにも規則的な死のパターン。偶然では片付けられない。
「美咲さんも…」
「ええ。彼女も記憶操作の倫理的問題について学会で発表する予定だった。その一週間前に死んだの」
部屋に重い沈黙が流れた。美咲の死が単なる個人の悲劇ではなく、巨大な陰謀の一部であることが明確になった。
「他の生存者はどうなっている?」蒼が尋ねた。
「それがもっと恐ろしいことなの」瑞希はキーボードを叩いた。「生きている十二名のうち、八名が記憶障害を患っている。研究への反対姿勢を翻し、沈黙を守るようになった人ばかりよ」
「記憶を操作されたということか」
「可能性は高い。そして…」瑞希は蒼を見詰めた。「あなたもその一人かもしれない」
蒼は自分の記憶喪失のことを思い出した。ただの事故ではなく、意図的に記憶を奪われたのかもしれない。では、なぜ自分だけが記憶探偵として活動できる能力を保持しているのだろうか。
その時、研究室のドアが開いた。田中刑事が険しい表情で入ってきた。
「雨宮、大変なことになった」
「何があったんですか?」
「昨夜、神奈川で記憶技術研究者の山田博士が自宅で死亡しているのが発見された。遺書があったから自殺として処理される予定だったが…」田中は写真を差し出した。「現場の状況がおかしい」
写真には書斎で倒れている中年男性の姿があった。机の上には遺書らしき紙が置かれている。
「どこがおかしいんですか?」
「遺書の筆跡だ。本人の筆跡と微妙に違う。それに、死亡推定時刻の前後に、近所の住民が複数の人影を目撃している」
瑞希が急いでコンピューターを操作した。「山田博士…いた!リストにある」
「やはりか」蒼は拳を握りしめた。「組織的な口封じが続いている」
「しかも」田中が続けた。「山田博士は生前、記憶操作技術の危険性について警告する論文を準備していたらしい。研究室から関連資料がすべて消えている」
三人は顔を見合わせた。状況は思っていたより深刻だった。
「このままでは他の生存者も危険ね」瑞希が呟いた。
「リストの残りの人たちに警告すべきでしょうか」田中が提案した。
「いや」蒼は首を振った。「それでは相手に気づかれてしまう。まずは証拠を集めることが先決だ」
蒼は立ち上がった。記憶カードが胸ポケットの中で重く感じられる。自分の失われた記憶の中に、この連続殺人の真相を解く鍵があるのかもしれない。
「瑞希、記憶カードの解析を頼む。田中さん、山田博士の件をもう少し詳しく調べてもらえませんか。不自然な点があれば何でも」
「分かった。だが雨宮」田中が心配そうな顔をした。「お前も狙われているかもしれん。一人で行動するのは危険だ」
「大丈夫です。記憶探偵として、この事件の真相を必ず暴いてみせます」
研究所を出た蒼は、街を歩きながら考えを整理していた。美咲の死、研究者たちの不審死、そして自分の記憶喪失。すべてが一本の線で繋がっている。
記憶操作技術を悪用する組織は、技術の危険性を訴える研究者たちを組織的に排除していた。そして生き残った者たちの記憶を操作し、沈黙させていた。では、なぜ自分は生かされているのだろうか。
スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。
「雨宮蒼だ」
「記憶探偵殿、お疲れ様です」聞き覚えのない男性の声だった。「昨夜の成果はいかがでしたか?」
「あなたは誰だ?」
「それより、山田博士の件はもうご存知でしょうね。次は誰の番だと思いますか?」
蒼の血が凍った。相手は自分たちの行動を監視している。
「桜庭瑞希さんも研究者の一人ですね。リストには載っていませんが、記憶技術の第一人者として有名です」男の声に嘲笑が混じった。「あなたの大切な人がどうなるか、想像がつきますよね?」
「瑞希に手を出すな!」
「それは、あなた次第です。今夜十時、指定した場所に一人で来てください。記憶カードを持参することをお忘れなく」
通話が切れた。蒼は急いで瑞希に電話をかけた。しかし、何度かけても繋がらない。
不安に駆られた蒼は研究所に戻った。瑞希の研究室は無人だった。机の上にメモが残されている。
『記憶カードの解析を進めます。先に帰ります。気をつけて。-瑞希』
しかし、瑞希の筆跡にしては少し乱れている。蒼は胸騒ぎを覚えた。
夕方、田中から連絡が入った。山田博士の件で新たな証拠が見つかったという。現場付近の防犯カメラに、博士の死亡推定時刻に黒いバンが映っていた。
「ナンバーを調べたが、偽造されたものだった。完全に組織的犯行だ」
「田中さん、瑞希の身辺警護をお願いできませんか。彼女が狙われているかもしれません」
「分かった。すぐに手配する」
夜が更けていく。蒼は自分のアパートで、記憶カードを見つめながら考え込んでいた。瑞希からの連絡は途絶えたままだった。
これまでの調査で明らかになったのは、記憶技術に関わる研究者たちが組織的に排除されているという事実だった。美咲も、山田博士も、そして他の多くの研究者たちも、記憶操作技術の危険性を世に訴えようとして命を奪われた。
そして今、瑞希も同じ危険に晒されている。
蒼は記憶カードを握りしめた。自分の失われた記憶の中に、この陰謀を止める手がかりがあるはずだ。真実を知るためには、リスクを冒してでもこのカードの中身を見る必要がある。
しかし、それよりも今は瑞希の安全が最優先だった。彼女を守るためなら、敵の罠だと分かっていても飛び込む覚悟ができていた。
時計が夜の九時を指した時、蒼は決意を固めて立ち上がった。真実への道は険しく、多くの命が犠牲になっている。しかし、もうこれ以上、大切な人を失うわけにはいかない。
記憶探偵として、そして一人の人間として、蒼は最後の戦いに向かう決意を新たにした。