黒木からの指令を受けて地下施設を後にした蒼は、約束の時間より早く研究所に向かった。夕暮れの東京の街並みが車窓を流れていく中、彼の脳裏には今日見た光景が焼き付いて離れなかった。政治家や要人たちの記憶が機械的に改竄されていく様子、そして来週に迫った全国民への記憶操作計画。
瑞希の研究所に到着すると、いつものように彼女が白衣姿で出迎えてくれた。しかし今日の蒼の目には、その白衣が違って見えた。組織の研究員たちが着ていたものと同じ白さ、同じ質感に思えてならない。
「お疲れさま。どうだった?」
瑞希の声には普段と変わらぬ温かさがあったが、蒼は微妙な違和感を覚えた。それは彼女の表情の奥に隠された何かを察知したからかもしれない。
「瑞希」
蒼は研究室の扉を閉めると、いつものように椅子に座らずに立ったまま彼女を見つめた。
「何?そんなに深刻な顔をして」
「君は黒木の組織にいたことがあるのか?」
瑞希の顔から血の気が引いた。彼女の手が震え、持っていたタブレットを取り落としそうになる。その反応だけで、蒼には答えがわかった。
「どうして……」
「今日、組織の施設で君の技術が使われているのを見た。記憶可視化装置の基本アーキテクチャ、記憶の抽出・編集システム。あれは間違いなく君が開発したものだ」
瑞希は蒼から視線を逸らし、壁際の実験台に手をついた。肩が小刻みに震えている。
「いつから知っていた?」蒼は静かに問い詰めた。「僕が記憶を失ったこと、黒木が何をしているか、すべて最初から知っていたんじゃないのか?」
長い沈黙が流れた。研究室の機械音だけが無機質に響いている。やがて瑞希はゆっくりと振り返り、涙を浮かべた目で蒼を見た。
「そうよ……私、元々は黒木さんの組織にいたの」
蒼の胸に鈍い痛みが走った。彼女の裏切りよりも、彼女が苦しんでいることの方が辛かった。
「三年前、私は記憶技術の可能性に魅せられて組織に参加した。最初は純粋な研究だったの。記憶を可視化し、人の心の奥底にある真実を明らかにする。それは素晴らしい技術だと思っていた」
瑞希は実験台に背中を預け、天井を仰いだ。
「でも組織の真の目的を知ったとき、私は愕然とした。記憶の改竄、人格の操作、そして社会全体の支配。私が開発した技術が、人々の自由意志を奪うために使われようとしていた」
「それで組織を離れたのか?」
「簡単じゃなかった」瑞希は苦笑いを浮かべた。「黒木さんは私を簡単には手放さなかった。でも……あなたが現れたから」
蒼は眉をひそめた。「僕が?」
「あなたは組織の記憶探偵として活動していたけれど、次第に組織の方針に疑問を持つようになった。そして私に接触してきた。正義感の強いあなたは、組織の真の目的を知って愕然とし、内部から組織を止めようとした」
瑞希の言葉に、蒼の失われた記憶の欠片が微かに蘇った。彼女と深夜の研究室で密かに話し合ったこと、組織への疑念を共有したこと。
「私たちは協力して、組織の記憶操作システムにバックドアを仕掛けた。いざというときにシステム全体を停止できるように。でも計画が露見して……」
「僕の記憶が消されたのか」
瑞希は頷いた。涙が頬を伝っている。
「黒木さんはあなたを殺すつもりだった。でも私が頼み込んだの。記憶を消すだけで許してもらうように。そして私があなたを監視することを条件に、組織からの離脱を認めてもらった」
蒼の心に複雑な感情が渦巻いた。瑞希が自分を守るために犠牲を払ってくれていたこと、しかし同時に彼女が組織のスパイとして自分を監視していたという事実。
「監視……それが君の役目だったのか」
「最初はそのつもりだった」瑞希は蒼の目を真っ直ぐに見た。「でも記憶を失ったあなたと過ごしているうちに、私の気持ちが変わった。あなたを守りたい、本当にあなたの力になりたいと思うようになった」
「それも演技かもしれない」
蒼の冷たい言葉に、瑞希は傷ついた表情を見せた。
「そう思われても仕方ない」彼女は小さな声で言った。「でも私の気持ちは本物よ。あなたへの愛情も、組織を止めたいという思いも」
蒼は瑞希の涙に濡れた顔を見つめた。彼女の感情は偽りではないように見える。しかし、記憶操作の専門家である彼女なら、自分の感情さえもコントロールできるのではないだろうか。
「君を信じていいのか、わからない」蒼は正直な気持ちを口にした。「今の僕には、何が真実で何が嘘なのか判断する材料が少なすぎる」
「それでもいい」瑞希は立ち上がり、蒼に近づいた。「私を疑っていてもいい。でも一緒に戦わせて。組織を止めるために」
「バックドアは今でも有効なのか?」
「わからない。三年も経っているし、システムも更新されている可能性がある。でも試してみる価値はあるわ」
蒼は窓の外に目を向けた。夜の帳が降り始めた東京の街に、無数の明かりが灯っている。その一つ一つに人々の生活があり、記憶があり、想いがある。それらすべてが来週、黒木によって改竄されてしまうのだろうか。
「君が本当に僕の味方なら」蒼は振り返った。「証明してみせろ」
瑞希は決意を込めて頷いた。
「明日の夜、組織の本部で最終調整が行われる。私も呼ばれているの。表向きは協力者として」
「危険すぎる」
「でも唯一のチャンスよ。内部から作業を妨害し、できればシステム全体を破壊する。あなた一人じゃ無理」
蒼は瑞希の提案を検討した。確かに彼女の協力なしに組織のシステムを破壊するのは困難だろう。しかし、これが罠である可能性も否定できない。
「約束して」瑞希は蒼の手を取った。「何があっても、私たちは一緒に戦う」
蒼は彼女の手の温かさを感じながら、複雑な心境で頷いた。信じるか疑うかではなく、今は組織を止めることが最優先だった。
その時、研究室のドアが音もなく開いた。黒木が数人の部下を連れて現れる。
「感動的な再会だったね、蒼」
黒木の皮肉な笑みに、蒼は身構えた。すべてが筒抜けだったのだ。
「君の正体に気づいたのは今日じゃない。最初からわかっていた」黒木は悠然と部屋に入ってきた。「ただ、瑞希がどこまで協力するかを見極めたかったんだ」
瑞希が蒼の前に立ちはだかった。
「黒木さん、約束が違う」
「約束?」黒木は首を振った。「君はもう十分に役目を果たした。あとは我々が処理する」
蒼は緊迫した状況の中で、瑞希の行動を注視した。彼女が最後に選ぶのは、自分の安全か、それとも自分への愛情か。その答えが、彼女への信頼を決定づけることになるだろう。