縛られた田中刑事の姿を見つめながら、蒼は冷静さを保つよう努めた。佐藤健二として演じ続けなければならない。一つの表情の乱れが、すべてを台無しにしてしまう。
「佐藤君、君の働きぶりは素晴らしい」黒木が口元に薄い笑みを浮かべた。「おかげで我々の計画は順調に進んでいる」
「ありがとうございます」蒼は頭を下げた。植え付けられた偽の記憶が、まるで本物のように脳裏に蘇る。組織への忠誠心、黒木への敬意—すべて人工的に作られたものだと分かっていても、その感情は驚くほど自然だった。
「ところで、君に新しい仕事を任せたい」黒木が振り返る。「我々の最重要施設を案内しよう」
蒼は黒木に従って地下へと向かった。エレベーターが下降するたび、空気が重くなっていく。地下五階で扉が開くと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
白い壁に囲まれた巨大な空間。数十台の記憶操作装置が規則正しく並び、それぞれに一人ずつ被験者が横たわっている。頭部に装着された電極から青白い光が明滅し、モニターには複雑な波形が表示されていた。
「これが我々の記憶改竄工場だ」黒木が誇らしげに言った。「ここで日本の未来を作り変えている」
蒼の心臓が激しく打った。しかし表面上は冷静を装い、感嘆の声を上げる。
「すごいですね。これほどの規模とは思いませんでした」
「見てみろ」黒木が最も近い装置を指差した。「あの男は厚生労働大臣の山田だ。彼の記憶を少し調整している」
装置に横たわる中年男性の顔を見て、蒼は息を呑んだ。テレビでよく見る政治家の顔だった。モニターには彼の記憶映像が映し出されている。国会での答弁、政策会議での発言—それらが次々と書き換えられていく。
「何を変更しているのですか?」
「彼の社会保障政策に対する考え方を修正している。我々の関連企業に有利になるよう、記憶の中の判断基準を調整しているのだ」
蒼は戦慄した。政治家の政策判断が、記憶操作によって歪められている。それは民主主義そのものへの攻撃だった。
「他にもいるのですか?」
「もちろんだ」黒木が歩を進める。「あちらは大手銀行の頭取、そして経済産業省の事務次官。みな我々の協力者になってもらっている」
施設の奥へ進むにつれ、蒼の衝撃は深まっていく。政界、財界、官界の要人たちが次々と記憶を書き換えられている。彼らは自分の意志で判断していると思い込んでいるが、実際には黒木組織の思惑通りに動かされているのだ。
「彼らは自分の記憶が操作されていることを知らないのですか?」
「当然だ。記憶操作の技術は完璧に近い。本人にとって、書き換えられた記憶は紛れもない真実なのだ」黒木の目が冷たく光った。「これこそが記憶技術の真の力だよ、佐藤君」
施設の中央部に到達すると、そこにはひときわ大きな制御室があった。巨大なスクリーンには日本地図が表示され、各地の拠点が点滅している。
「こちらが全国ネットワークの司令部だ」黒木が説明する。「全国四十七都道府県に記憶操作の中継基地を設置している。来週の実行日には、全国民の記憶を同時に書き換える予定だ」
蒼は言葉を失った。個人レベルの記憶操作でさえ恐ろしいのに、国民全体への影響を考えると眩暈がしそうになる。
「どのような記憶を植え付けるのですか?」
「新しい価値観だ。我々の組織を支持し、現在の政府に不信を抱くよう誘導する。そして記憶技術への依存を深めさせる」黒木の声に狂気が混じっていた。「人々は自分の判断だと思い込みながら、実際には我々の描いたシナリオ通りに行動するのだ」
制御室の技術者たちが忙しく作業を続けている。彼らもまた、記憶を操作されているのだろうか。それとも自らの意志で参加しているのか。もはや区別がつかない。
「素晴らしい計画ですね」蒼は吐き気を抑えながら言った。「しかし、これほど大規模な操作が本当に可能なのでしょうか?」
「心配は無用だ」黒木が振り返る。「我々には最高の技術者がいる。桜庭瑞希—彼女の開発した技術があれば、不可能はない」
桜庭の名前を聞いて、蒼の胸に痛みが走った。彼女もこの計画に関わっているのか。それとも技術を悪用されているだけなのか。
「桜庭博士も組織の一員なのですか?」
「いや、彼女は我々の存在を知らない」黒木が冷笑した。「彼女の研究データを密かに入手し、我々独自の改良を加えている。本人は人類の幸福のために研究していると思い込んでいるが、実際には我々の野望の道具に過ぎない」
蒼は安堵と同時に憤りを感じた。瑞希は無実だが、彼女の善意が悪用されている。科学技術の両面性を痛感した。
「では、彼女には計画の全容は?」
「知らせる必要はない。むしろ、邪魔をされては困る」黒木の目が険しくなった。「もし彼女が真実を知れば、技術の提供を拒否するだろう。それでは我々の計画が頓挫してしまう」
施設の見学を終え、蒼は黒木のオフィスに戻った。頭の中で情報を整理しながら、どうやってこの状況を打開するか考える。組織の規模と計画の恐ろしさは想像以上だった。
「佐藤君、君にも重要な任務がある」黒木がデスクから書類を取り出した。「来週の実行日に向けて、最終調整を行ってもらいたい」
「どのような作業でしょうか?」
「記憶パターンの最適化だ。対象者の年齢や職業に応じて、最も効果的な記憶改変パターンを選定してもらう」
蒼は書類を受け取りながら、内心で計画を練っていた。組織の中枢に潜り込めた今、内部から破壊工作を行う絶好の機会だった。しかし一歩間違えれば、田中刑事だけでなく、瑞希や多くの無実の人々が危険にさらされる。
「光栄です。必ずや期待にお応えします」
「期待しているよ」黒木が立ち上がった。「ところで、君の記憶探偵時代の経験が役に立ちそうだな。記憶の構造を理解している君なら、より精密な操作が可能だろう」
その瞬間、蒼は背筋が凍った。黒木の言葉に、何か引っかかるものがあった。まるで蒼の正体を見透かしているような口調だった。
「記憶探偵時代?」
「ああ、佐藤健二の記録にあったよ」黒木が微笑んだ。しかしその笑みには、得体の知れない冷たさがあった。「君の過去の経歴は我々もしっかりと把握している」
蒼は慎重に答えた。植え付けられた偽の記憶を頼りに。
「そうですね。あの頃の経験が今、役に立つとは思いませんでした」
黒木はしばらく蒼を見つめていたが、やがて満足そうに頷いた。
「では、明日から本格的に作業を開始してくれ。日本の新しい未来のために」
オフィスを出た蒼は、廊下で深く息を吸った。緊張で汗ばんだ手を拭いながら、今日得た情報を整理する。記憶改竄工場の存在、要人への操作、そして来週に迫った国民全体への記憶操作計画。
しかし最も気になるのは、黒木の最後の表情だった。まるで何かを確信したような、不敵な笑みが脳裏に焼き付いている。
果たして自分の正体は本当にバレていないのだろうか。それとも黒木は既に気づいていて、あえて泳がせているのか。
蒼は与えられた個室に向かいながら、背後から視線を感じていた。