爆音が響いた瞬間、研究所の窓ガラスが震えた。蒼は反射的に瑞希を庇うように身を寄せ、橋本次官を鋭く見つめた。
「何の騒ぎだ」
橋本は慌てることなく、むしろ薄い笑みを浮かべながら窓の外を眺めた。
「黒木君の組織が動き出したようですね。彼らも必死なのでしょう。データチップの価値を理解しているから」
蒼の胸に怒りが込み上げた。この男は最初から全てを知っていたのだ。美咲の死も、組織の動きも、そして自分たちがここに来ることも。
「貴方が仕組んだのか」
「仕組んだとは心外な。私はただ、既に動いている歯車を正しい方向に回そうとしているだけです」
橋本は懐から小さなデバイスを取り出した。記憶植付け装置—蒼もよく知っている機器だったが、これは軍用の高性能型だった。
「雨宮さん、貴方には特別な任務をお願いしたい。黒木君の組織に潜入していただきます」
「潜入?」瑞希が身を乗り出した。「そんな危険なことを—」
「彼らの真の目的を探るためです。我々の調査では、あの組織は単なる犯罪集団ではない。もっと大きな野望を抱いている」
蒼は橋本の言葉を注意深く聞いていた。確かに、黒木の行動には一貫した何かがあった。金銭目的だけでは説明のつかない執念深さが。
「どうやって?私の顔は向こうも知っている」
「それが、このデバイスの出番です」橋本は記憶植付け装置を軽く振った。「偽の記憶を植え付け、貴方を組織の新メンバーとして送り込む。期間は48時間。それ以上は危険です」
偽の記憶の植え付け。蒼は自分の記憶喪失のことを思い出し、複雑な気持ちになった。記憶とは何なのか、自分とは何なのか—その問いが再び頭をもたげる。
「蒼、だめよ」瑞希が彼の腕を掴んだ。「偽の記憶を入れるなんて、どんな副作用があるかわからない。貴方の脳は既に—」
「大丈夫だ」蒼は瑞希の手に自分の手を重ねた。「これは俺が決めなければならないことだ」
窓の外では、また爆音が響いた。今度はより近く、研究所の建物が微かに揺れた。
「時間がありません」橋本が急かすように言った。「彼らは本格的に動き出している。今を逃せば、全てが手遅れになる」
蒼は深く息を吸い込んだ。美咲の死の真相、自分の過去の記憶、そして黒木との因縁—全ての答えが、この先にある気がした。
「わかった。やろう」
「蒼!」
「瑞希」蒼は振り返り、彼女の瞳を見つめた。「俺は記憶を失った男だ。でも、君との思い出だけは絶対に手放さない。それが俺の本当の記憶だから」
瑞希の目に涙が浮かんだ。
橋本は手慣れた様子で装置を操作し始めた。
「植え付ける記憶は、黒木組織の末端メンバー・佐藤健二として設定します。記憶操作の才能を買われて最近組織に加わった、という設定です」
装置から細いケーブルが伸び、蒼の側頭部に装着された。冷たい金属の感触が肌に触れる。
「始めます。意識を失っても抵抗しないでください」
電流が脳に流れ込む感覚。蒼の視界が徐々に霞んでいく中、瑞希の心配そうな顔が最後に見えた。
そして、闇が訪れた。
* * *
目を覚ましたとき、蒼は全く違う場所にいた。薄暗い地下室のような空間で、古いコンクリートの壁が冷たく感じられる。
記憶を整理する。自分は佐藤健二、28歳。記憶操作の特殊能力を持つフリーランサーだったが、黒木竜也の組織に勧誘された。今日が初出勤の日—
植え付けられた偽の記憶と、本来の記憶が頭の中で混在している。意識的に本当の自分を保持しながら、表面上は佐藤健二として振る舞わなければならない。
「新人か」
声に振り向くと、スキンヘッドの大柄な男が立っていた。組織の幹部の一人、山田と偽の記憶が告げる。
「はい。佐藤です。よろしくお願いします」
「黒木のボスがお前に期待してるらしいな。記憶探査の腕前、見せてもらうぜ」
山田に連れられて、蒼は組織の本部らしき場所を歩いた。想像以上に大規模で、最新の記憶操作機器が並んでいる。まるで研究施設のようだった。
「ここがメインラボだ」山田が指差したのは、巨大なスクリーンと複数の記憶操作装置が設置された部屋だった。「我々の真の事業の中心だ」
スクリーンには、東京都内の地図が表示され、無数の赤い点が点滅している。
「これは?」
「記憶操作を施した対象者のマップだ。政治家、官僚、企業経営者、メディア関係者…重要人物たちの記憶を少しずつ書き換えて、我々の思想を植え付けている」
蒼は背筋が凍る思いだった。これは単なる犯罪ではない。社会全体を操作しようとする壮大な陰謀だった。
「目的は何ですか?」
「新しい社会の創造さ。記憶こそが人間の本質なら、その記憶をコントロールすることで、完璧な社会を作ることができる。争いのない、混乱のない、秩序ある世界を」
山田の言葉には狂信的な響きがあった。彼らは本気で、記憶操作による理想郷を築こうとしている。
「黒木ボスは、記憶こそが人類進化の鍵だと言っている。痛みや悲しみ、憎しみといった負の記憶を取り除き、愛と調和だけの記憶を植え付ければ、人は本当に幸せになれる」
その時、奥の部屋から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「計画は順調に進んでいる。あと一週間もすれば、第二段階に移行できるだろう」
黒木の声だった。蒼の心臓が激しく鼓動する。
「第二段階とは?」山田に尋ねた。
「都内全域への記憶操作電波の同時発信だ。特殊な電波を使って、一度に数百万人の記憶を書き換える。新しい東京の誕生だよ」
蒼は慄然とした。それが実現すれば、東京都民全員が黒木の思想に染まった人形と化してしまう。
黒木の声が近づいてくる。蒼は咄嗟に顔を伏せ、佐藤健二としての記憶を表面に浮上させた。
「山田、新人の様子はどうだ?」
「はい、ボス。なかなか有望そうです」
蒼はゆっくりと顔を上げた。そこには、記憶の中の親友とは全く違う表情をした黒木竜也が立っていた。冷酷で、狂気を秘めた瞳。
「佐藤健二、だったな。君の能力を試させてもらおう」
黒木が指差したのは、椅子に縛り付けられた中年男性だった。恐怖に震える彼の顔を見て、蒼は息を呑んだ。
それは田中刑事だった。