瑞希を人質に取られた蒼は、冷静さを保とうと努めていたが、内心では怒りが煮えたぎっていた。謎の男が指定した取引場所は、東京湾岸の廃倉庫街だった。しかし、蒼はただ指示に従うつもりはなかった。
「田中さん、すぐに来てもらえますか」
蒼は携帯端末で田中刑事に連絡を取った。状況を説明すると、田中は即座に協力を申し出た。
「危険すぎる。一人で行くな」
「でも、相手は瑞希の身を人質にしています。下手に動けば—」
「だからこそだ。俺たちがバックアップに回る。お前の記憶探索能力が必要になるかもしれない」
蒼は田中の提案を受け入れた。ただし、取引の場には一人で向かい、田中たちは周囲で待機することにした。
夜が更けた廃倉庫街は、街灯もまばらで不気味な静寂に包まれていた。指定された倉庫の前に立つと、蒼の胸は緊張で高鳴った。重い扉を開けると、薄暗い空間に複数の人影が浮かび上がった。
「よく来たな、雨宮蒼」
奥から現れた男は、黒木ではなかった。中年の男で、高級そうなスーツに身を包んでいる。その隣には、椅子に縛られた瑞希の姿があった。
「瑞希!」
蒼が駆け寄ろうとすると、男が手を上げて制止した。
「まずは約束の品を見せてもらおう。記憶カードだ」
蒼は懐から小さなメモリーカードを取り出した。しかし、それは本物ではなく、ダミーだった。
「これがお望みの物です。瑞希を解放してください」
男は部下に目配せし、一人の男がカードを受け取りに近づいた。その瞬間、蒼は男の手首を掴んだ。記憶探索能力を発動させ、相手の記憶に潜り込む。
男の記憶の中で、蒼は衝撃的な光景を目にした。巨大な地下施設で、まるで商品陳列棚のように記憶カードが整然と並べられている。そこには値札まで付いていた。
『幸せな結婚生活の記憶—500万円』
『天才的な数学能力—1000万円』
『完璧な語学習得記憶—300万円』
『痛みを感じない体質—2000万円』
蒼は愕然とした。記憶が商品として売買されている現実を目の当たりにしたのだ。しかも、その多くが偽造された記憶や、他人から強制的に抜き取られた記憶だった。
「これは...」
記憶探索を続けると、さらに恐ろしい実態が明らかになった。記憶の消去サービスも行われていたのだ。罪悪感、トラウマ、不都合な過去—金さえ払えば、あらゆる記憶を消去できる。逆に、他人の優秀な能力や美しい思い出を移植することも可能だった。
「お客様のご要望に応じて、どんな記憶でも提供いたします」
記憶の中の営業担当者が、まるで高級品を扱うかのように説明している光景は、蒼の心に深い憤りを呼び起こした。
現実に戻った蒼は、男を睨みつけた。
「貴方たちは記憶を商品にしている。人間の尊厳を金で売買しているんだ」
男は驚いた表情を見せた。記憶探索能力の存在を知らなかったのだろう。
「何を言っている?記憶カードを渡せばいいだけの話だ」
「その記憶カードも、あなたたちの商品の一つなんでしょう。希少価値の高い、特別な記憶として」
蒼の言葉に、男の顔色が変わった。図星だったのだ。
「需要があるから供給する。それだけのことだ。つらい記憶を消したい人、優秀になりたい人、幸せになりたい人—みんな喜んで金を払っている」
「でも、それは本当の幸せじゃない。偽物の記憶で作られた感情に、何の意味があるんですか」
男は冷笑を浮かべた。
「意味?記憶なんて所詮は脳の電気信号だ。本物も偽物も、本人が幸せを感じればそれでいいじゃないか」
蒼は拳を握りしめた。この男には、記憶の持つ本当の価値が理解できていなかった。
「記憶は単なる情報じゃない。その人が歩んできた人生そのものです。痛みも含めて、全てがその人を形作っている」
その時、倉庫の外から銃声が響いた。田中たちが動いたのだ。男たちは慌てふためき、混乱の中で蒼は瑞希の元へと駆け寄った。
「大丈夫?」
「蒼...あなたが来てくれたのね」
瑞希を解放しながら、蒼は先ほど見た記憶の光景について話した。記憶売買市場の存在、偽記憶の商品化、そして社会に潜む深い闇について。
「これは氷山の一角よ」瑞希は震え声で言った。「私が調べていた研究者たちも、きっとこの実態を知って反対していたのね。だから...」
「ああ、口封じされた。でも、もう黙っているわけにはいかない」
蒼の胸に、強い使命感が湧き上がった。記憶探偵として、この技術の悪用を阻止しなければならない。人間の尊厳を守るために戦わなければならない。
倉庫に田中たちが突入してきた時、蒼と瑞希は既に安全な場所にいた。犯人たちは逮捕されたが、これは組織の末端に過ぎないことは明らかだった。
「記憶の売買か...恐ろしい時代になったものだ」
田中は苦い表情を浮かべた。
「でも、これで終わりじゃありません」蒼は決意を込めて言った。「この市場には必ず黒幕がいる。記憶技術の悪用を根絶やしにするまで、僕は戦い続けます」
瑞希は蒼の手を握りしめた。
「私も協力する。技術は人を幸せにするためにあるべきよ」
しかし、蒼が知らない場所で、黒木竜也は記憶売買市場の摘発をモニターで見つめていた。その表情には、計算高い笑みが浮かんでいた。
「面白くなってきたな、蒼。君がどこまで真実に近づけるか、楽しみにしているよ」