陽菜の光に包まれた時層図書館の空間に、刹那の静寂が訪れた。しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。

 複数の時喰いが同時に咆哮を上げる。その声は図書館全体を震わせ、古い書架が軋む音を響かせた。陽菜は膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。守人の力を発現させたものの、それは彼女の体力を大きく消耗させていたのだ。

「陽菜!」

 晴明が駆け寄ろうとした瞬間、最も巨大な時喰いが触手のような腕を振り下ろした。その軌道上にあった書架が一瞬で灰と化し、無数の本が宙に舞い散る。しかし、それらの本は地面に落ちることはなく、空中で光の粒子となって消失していった。

「あかん!記録が食われとる!」

 北斎の声に一同が振り返ると、消失した本があった場所に、ぽっかりと空洞ができていた。それは単に物理的な空間の欠損ではなく、そこに確かに存在していた歴史そのものが失われた証拠だった。

 エジソン明治が慌てて懐中時計を取り出す。その文字盤が激しく震えていた。

「諸君、これは由々しき事態だ。時間軸に乱れが生じている」

 時喰いたちは陽菜の光で一時的に怯んだものの、すぐに態勢を立て直していた。それどころか、図書館の記録を食べることで、より力を増しているように見えた。最初に現れた時喰いよりも、明らかに体が大きくなっている。

 晴明が印を結び、式神を放つ。青白い光を纏った鳥の形をした式神が時喰いに向かって飛んでいく。しかし、時喰いがその口を大きく開けると、式神も光の粒子となって吸い込まれてしまった。

「私の式神まで…!」

 晴明の驚愕の声が図書館に響く。時喰いは術式さえも餌として取り込んでしまったのだ。

 北斎が筆を構え直す。

「こいつら、なんでも食っちまうじゃねえか。だが、俺の絵はそう簡単には消えねえぞ!」

 空中に力強い筆致で炎の龍を描く。赤と金の美しい龍が宙を舞い、時喰いに向かって突進した。時喰いの体に龍がぶつかり、一瞬、その動きが止まる。しかし、龍もまた徐々に色褪せ始め、やがて消失してしまった。

 陽菜は立ち上がろうと必死にもがいていた。仲間たちの攻撃が次々と無力化される様子を見て、心に焦燥感が広がっていく。

 その時、図書館の奥から響いてくる音に気づいた。本が落ちる音、本棚が倒れる音、そして何より恐ろしいことに、歴史が失われていく音だった。

 エジソン明治が青ざめた顔で振り返る。

「諸君、他の区画でも時喰いが現れているようだ。この分だと…」

 彼の言葉を遮るように、図書館全体が大きく揺れた。まるで建物そのものが存在の基盤を失いつつあるかのように。

 陽菜がようやく立ち上がった時、彼女の目に飛び込んできたのは、図書館の壁に浮かび上がった無数の扉が、一つまた一つと消えていく光景だった。江戸時代への扉、室町時代への扉、鎌倉時代への扉…それらが静かに、しかし確実に闇に呑まれていく。

「時代への道が閉ざされている…」

 陽菜の呟きに、晴明が振り返った。

「これは単なる破壊ではない。歴史そのものが食い尽くされているのだ」

 その時、陽菜のポケットに入れていた携帯電話が鳴った。現代の世界からの着信。恐る恐る画面を見ると、親友からのメッセージが表示されている。

『陽菜、おかしなことが起きてる。昨日まであった商店街のお店が消えてる。でも誰もそのことを覚えてないの。私だけが覚えてるみたい…』

 陽菜の顔から血の気が引いた。図書館での記録の消失が、現実世界にも影響を与え始めているのだ。

「みんな、聞いて!現実の世界でも歴史の改変が起きてる!」

 陽菜の叫びに、仲間たちの表情が一層険しくなった。北斎が舌打ちをする。

「ちっ、思ったより事態は深刻だな。このままじゃあ、俺たちの時代も消えちまうかもしれねえ」

 エジソン明治が懐から奇妙な装置を取り出した。それは複数の歯車と水晶で構成された、時計のような形をしている。

「これは時間測定器だ。現在の時空の歪みを数値化できる」

 装置の針が激しく振れている。通常では考えられないほどの異常値を示していた。

「危険域を大幅に超えている。このままでは時空そのものが崩壊する可能性がある」

 晴明が新たな印を結ぼうとした時、最大の時喰いが再び動き出した。その体は先ほどよりもさらに巨大になり、触手のような腕が図書館の天井に届くほどに成長していた。

 時喰いの口から発せられる音に、陽菜は再び奇妙な感覚を覚えた。それは確かに破壊への渇望を表す咆哮なのだが、その奥底に深い悲しみが隠されているように感じられた。

「なぜ…なぜそんなに悲しい声を出すの…?」

 陽菜の呟きに、時喰いの動きが一瞬止まった。まるで彼女の言葉を理解したかのように。

 しかし、その隙を縫って、別の時喰いが図書館の奥へと消えていく。平安時代の記録が収められた区画の方向だった。

「あっちへ向かった!」

 晴明の顔に焦りの色が浮かぶ。自分の時代の記録が失われれば、彼自身の存在も危うくなる可能性があった。

 北斎とエジソン明治も、それぞれ自分の時代への不安を隠せずにいた。しかし、目の前にいる巨大な時喰いを放置して追跡することもできない。

 陽菜は深呼吸をして、再び光を纏おうとした。だが、先ほどの力の発現で消耗した体は、思うように応えてくれない。

「くそっ…!こんな時に…!」

 その時、図書館の最奥から新たな異音が響いてきた。それは本が燃える音でも、崩れる音でもなく、何かがゆっくりと溶けていくような、不気味な音だった。

 エジソン明治の装置の針が振り切れる。

「諸君、時空崩壊まで残り時間が少ない。我々は重大な選択を迫られている」

 陽菜が振り返ると、仲間たちの表情に迷いが浮かんでいるのが分かった。図書館全体を守るか、それとも自分たちの時代への道を確保するために分散するか。

 巨大な時喰いが再び咆哮を上げる。その声に呼応するように、図書館の各所から同じような鳴き声が響いてくる。時喰いの群れが、図書館全体を包囲しているのだ。

 陽菜の心に、祖母の言葉が蘇った。『真の継承とは、失うことを恐れずに守り抜くこと』。

 しかし、今の状況では何を守り、何を捨てるべきなのかさえ見えない。すべてが失われつつある中で、陽菜たちはどのような選択をすべきなのだろうか。

 時喰いたちの鳴き声が次第に大きくなり、図書館の光がまた一段と暗くなっていく。時間は刻一刻と過ぎ、破滅への秒読みが始まっていた。

時層図書館の守人たち

9

失われた記憶

織部 時花

2026-03-29

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第9話 失われた記憶 - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版