雅の言葉が図書館の静寂に響いた後、重苦しい沈黙が降りた。陽菜は祖母の日記を胸に抱き、その古い紙の匂いから千鶴の面影を感じ取ろうとしていた。晴明は契約書に目を通し、北斎は落ち着きなく筆を回している。エジソン明治だけが、懐中時計を取り出して何かを確認していた。

「来る」

 エジソン明治の声が静寂を破った。その瞬間、図書館全体が微かに震え始めた。本棚の間を縫って冷たい風が吹き抜け、ろうそくの炎が不安げに揺れる。

「時喰いか」晴明が立ち上がりながら呟いた。「思ったより早い」

 陽菜の胸が早鐘を打った。頭では覚悟していたつもりだったが、実際にその瞬間が訪れると、足が震えて立ち上がれない。雅は陽菜の肩に手を置いた。

「恐れることはない、陽菜。お前は千鶴の孫だ。血の中に勇気が流れている」

 その時、図書館の奥から異様な音が響いてきた。まるで何かが本のページを食い破るような、ざりざりとした不快な音だった。陽菜は震え上がった。

「あの音は……」

「時喰いが記憶を食べている音だ」北斎が筆を握り直しながら言った。「急ぐぞ」

 四人は音のする方向へ向かった。陽菜は雅に支えられながら歩く。足は震えていたが、不思議と心は落ち着いてきた。祖母の日記を抱いていると、千鶴が一緒にいてくれるような気がしたのだ。

 図書館の東翼に入ると、異変は一目瞭然だった。本棚の一角が黒い靄に覆われ、そこにあったはずの本が次々と消失している。靄の中心には、人のような形をしているが輪郭のはっきりしない影がいた。それが時喰いだった。

「うわあ……」

 陽菜は思わず声を上げた。時喰いの周りでは、本のページが風に舞うように宙に浮かび、文字が一つずつ消えていく。まるで世界から記憶が削り取られていくような光景だった。

「歴史書の棚だな」晴明が冷静に状況を分析する。「あれは平安時代の記録を狙っている」

「俺の時代の記録もあるぞ、あの辺りは」北斎が険しい顔をした。「食わせるわけにはいかねぇ」

 エジソン明治が懐から奇妙な装置を取り出した。真鍮でできた筒状の機械で、先端に水晶のレンズがついている。

「光学式時層探知機だ。時喰いの弱点を見つける」

 機械から放たれた光が時喰いを照らすと、影のような存在の中に赤く脈打つ核のようなものが見えた。

「あれが弱点か」晴明が式神を召喚しながら言った。「だが、どうやって攻撃する?」

「俺に任せろ」

 北斎が筆を構えた。空中に素早く何かを描くと、描いた線が金色に光り、実体を持った鎖となって時喰いに向かって飛んでいく。しかし時喰いは鎖を軽々と引きちぎってしまった。

「効かない?」

「いや、少し動きが鈍った」晴明が観察していた。「物理的な攻撃は効果が薄いが、全く無意味ではない」

 時喰いがゆっくりと振り返った。顔があるべき場所には虚無が広がっているだけだったが、確実に四人を認識している。そして、低く響く声で言った。

「守人たちよ。なぜ無意味な抵抗をする。記憶など、苦痛を生むだけの幻影に過ぎないではないか」

 陽菜は背筋が凍る思いだった。時喰いの声には、どこか悲しみのような響きがあった。

「記憶は幻影なんかじゃない」

 陽菜は震える声で言った。

「記憶があるから、人は成長できる。過去を大切にできる。それを奪う権利なんて、誰にもない」

 時喰いは陽菜に向き直った。

「愚かな子よ。お前もいずれ知ることになる。記憶がもたらす痛みを。失うことの苦しさを。ならば、最初から何もなければよいのだ」

 その時、時喰いの周りの靄が広がり始めた。四人の足元にも黒い霧が這い寄ってくる。

「まずい、本格的に動き出した」エジソン明治が警告した。「この靄に触れると記憶を食われる」

 晴明は素早く結界を張った。青白い光の壁が四人を囲み、靄の侵入を防ぐ。しかし結界は時喰いの力に押されて次第に小さくなっていく。

「結界が持たない」晴明の額に汗が浮かんだ。「この時喰いは想像以上に強い」

「なら、みんなで力を合わせるしかないな」北斎が筆を握り直した。「エジソン、何か手はないか」

「攻撃よりも、まずは退路を確保すべきだ」エジソン明治が冷静に判断した。「初戦で相手の力を見極めるのが先決だろう」

 しかし時喰いは待ってくれなかった。突然、巨大な触手のような靄を伸ばし、結界を打ち破ろうとする。晴明の結界がひび割れ始めた。

「陽菜!」雅が叫んだ。「今こそ守人の力を使う時だ。恐れるな!」

 陽菜は祖母の日記を強く握りしめた。その瞬間、日記から温かい光が溢れ出した。光は陽菜の全身を包み、彼女の瞳が金色に輝く。

「これは……」

 陽菜の周りに無数の光の粒子が舞い上がった。それは図書館にある全ての本から立ち上る記憶の輝きだった。光の粒子は時喰いの靄と激突し、激しい音を立てて中和し合う。

 時喰いが苦しげにうめいた。

「守人の力……まだ、そのような力を……」

「記憶は消えない」陽菜は確信を込めて言った。「人々が大切に思う限り、絶対に消えない」

 しかし陽菜の力も完全ではなかった。光の粒子は次第に薄れていき、彼女の膝が震え始める。

「陽菜、無理をするな」晴明が支えた。

 時喰いは再び攻撃態勢を取った。今度はさらに強い力で靄を放出し、図書館全体を覆い始める。本棚から本が次々と消失していく。

「これは一時撤退だ」エジソン明治が判断した。「このままでは全滅する」

「待って」陽菜が弱々しい声で言った。「あの時喰い……何か悲しんでいる」

「悲しんでいる?」北斎が眉をひそめた。「あんな化け物が?」

「声に、痛みがあった。まるで、何かを失った人みたいな……」

 その時、図書館の深部から新たな靄が立ち上った。時喰いは一体だけではなかったのだ。

「複数いるのか」晴明が青ざめた。

 状況は絶望的だった。一体でも手こずるのに、複数の時喰いを相手にするのは無謀だった。しかし陽菜は、時喰いの声に込められていた悲しみを忘れることができなかった。

 きっと、虚無の収集家にも、時喰いたちにも、何か理由があるのだ。ただの破壊衝動ではない、深い痛みが。

「雅おばあさま」陽菜は雅を見上げた。「私たち、本当に戦うしかないの?」

 雅は複雑な表情を浮かべた。

「陽菜よ、お前はやはり千鶴の孫だ。祖母も、同じことを考えていた」

 その時、図書館全体が大きく揺れた。さらに多くの時喰いが現れたのだ。本当の戦いは、これから始まるのだった。

時層図書館の守人たち

8

最初の時喰い

織部 時花

2026-03-28

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第8話 最初の時喰い - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版