紫色の本が示した映像は、まだ陽菜の心の奥で静かに波紋を広げていた。あの青年の表情、愛するものを失った時の絶望、そして虚無へと向かう孤独な背中。すべてが胸に刺さるように鮮明だった。
「陽菜殿、いかがなされた」
晴明の声に、陽菜は我に返った。彼らは図書館の中央広場に集まり、今後の方針を話し合っているところだった。無数の本棚が静寂の中で佇み、各時代への扉は穏やかな光を放っている。一見すると平和そのものだが、陽菜には嵐の前の静けさのように感じられた。
「あの人を、虚無の収集家を救えないかしら」
陽菜の言葉に、仲間たちの表情が一様に驚きの色を見せた。
「何を言ってるんだ、陽菜ちゃん」北斎が筆を止めて振り返る。「あいつは俺たちを、いや、この世界のすべてを消そうとしてるんだぜ」
「分かってる。でも……」陽菜は紫の本を抱きしめた。「あの映像を見て。彼はもともと私たちと同じだったの。記憶を、人との繋がりを大切にしていた人だった」
エジソン明治が眼鏡を押し上げながら口を開く。「確かに興味深い発見でした。しかし陽菜さん、彼が何を経験したにせよ、今の行為は許されるものではありません」
「そうよ、だからこそ」陽菜の声に熱が籠もった。「彼を元の姿に戻せるかもしれない。痛みから解放してあげられるかもしれない」
晴明は腕を組んで深く考え込んでいたが、やがて口を開いた。「陽菜殿の思いは理解できます。しかし、相手がその提案を受け入れる保証はない。むしろ、我らの情を利用してくる可能性もある」
「それでも試してみたいの」陽菜は立ち上がった。「もし私が間違っていたら、その時は全力で戦う。でも、戦う前に一度だけ、話をしてみたい」
仲間たちは互いに視線を交わした。北斎が大きくため息をついて笑う。「まったく、陽菜ちゃんの優しさには参るよ。でもな、それがあんたの一番の武器でもあるんだ」
「では、どうやって接触を?」エジソン明治が現実的な問題を提起する。
その時、図書館に冷たい風が吹き抜けた。本棚の間から黒い霧が立ち上がり、それは次第に人の形を成していく。虚無の収集家が、まるで陽菜の思いに応えるように姿を現したのだった。
「君たちが私を呼んだのか」
その声は以前よりも穏やかで、しかし底知れない悲しみを含んでいた。
「あなたに話があるの」陽菜は一歩前に出た。仲間たちが身構える中、彼女だけは武器を手にしなかった。
「話?」収集家の顔に困惑が浮かぶ。「君たちとは戦いの決着をつけに来たのだが」
「その前に聞いて。私たち、あなたの過去を見たの。あなたがどれだけ記憶を愛していたか、どれだけ人との繋がりを大切にしていたかを知った」
収集家の表情が微かに揺らいだ。「それがどうしたというのだ」
「あなたは本当は虚無なんて望んでいない」陽菜の声が図書館に響く。「ただ、痛みから逃れたいだけ。でも逃げ続けても、本当の平安は得られないわ」
「黙れ」収集家の声に初めて感情の波が見えた。「君に何が分かる。失うということがどれほど苦しいか、君に何が分かるというのだ」
「分からないかもしれない。でも分かろうとしたい」陽菜は更に近づいた。「一人で抱え込まないで。あなたの痛みを、みんなで分け合えないかしら」
一瞬、図書館が静寂に包まれた。収集家の瞳に、遠い昔の温かい光が宿ったように見えた。しかし、それは束の間のことだった。
「甘い。あまりにも甘すぎる」収集家の声が氷のように冷たくなった。「君は本当の絶望を知らない。すべてを失った時の、魂が引き裂かれるような苦しみを知らない」
「だから教えて」陽菜は諦めなかった。「あなたの苦しみを教えて。一緒に背負わせて」
しかし収集家は首を振った。「無駄だ。もう遅すぎる。私はすでに選んだ道を歩み続けるしかない」
彼の周囲の空気が歪み始めた。しかしそれは今までとは異なる、より精密で危険な歪みだった。
「これまでは君たちと正面から戦ってきた。だが、君たちの結束は予想以上に固い。ならば、別の方法を取ろう」
収集家の手が虚空に描く軌跡が、複雑な術式を刻んでいく。
「各時代の扉を同時に開く。過去と未来、現在が入り混じった混沌の中で、君たちがどれだけ仲間を守れるか見せてもらおう」
「まずい」晴明が声を上げた。「時間軸を意図的に混乱させる気だ。下手をすると歴史そのものが」
図書館中の扉が一斉に光り始めた。平安、江戸、明治、そして現代。さらには陽菜たちも知らない時代の扉までもが開かれていく。
「あなた、本気でそんなことを」陽菜が驚愕の声を上げる。
「すべての時代の記憶を一度に解放する。過去も未来も現在も、すべてが混じり合った混沌の中で、記憶というものがいかに脆いものかを証明してやろう」
収集家の瞳に、狂気にも似た決意の光が宿った。
「君の優しさは美しい。だが、それは平和な時代に守られた温室の花だ。真の絶望の前では、君の理想主義など何の役にも立たない」
扉から漏れ出る光が次第に強くなり、図書館全体が振動し始めた。本棚が軋み、古い書物たちがざわめき声を上げる。
「やめて!」陽菜が叫んだが、収集家は振り返らない。
「これが最後の段階だ。君たちが守ろうとする記憶たちを、時の混沌の中で消し去ってやる。そうすれば君たちも理解するだろう。忘却こそが真の慈悲なのだということを」
晴明が術式の詠唱を始め、北斎が筆を構え、エジソン明治が発明品を取り出す。しかし、収集家の術式はすでに発動していた。
図書館の空間そのものが歪み、各時代の風景が重なり合って見え始める。平安の雅な宮廷、江戸の賑やかな街並み、明治の文明開化の息吹、そして現代の喧騒。すべてが同じ空間に存在し、互いに干渉し合おうとしていた。
「陽菜殿!」晴明の声が響く。「時空の境界が崩れています。このままでは」
陽菜は歯を食いしばった。和解への道は閉ざされた。いや、まだ完全に閉ざされたわけではない。戦いの中でも、彼の心に届く方法があるはずだ。
「みんな」陽菜が振り返る。「各時代の記憶を守って。そして――」
彼女の瞳に、新たな決意の光が宿った。
「彼の記憶も救うのよ。彼自身も、この図書館が守るべき大切な記憶の一部なのだから」
時層図書館の最後の戦いが、今、始まろうとしていた。