洗面台の鏡が、昨日から一秒遅れて動く。

 最初に気づいたのは歯を磨いているときだった。口をゆすいで顔を上げると、鏡の中の自分がわずかに遅れてコップを置いた。目を擦り、もう一度確かめる。今度は同時だった。

 気のせいだ、と思うことにした。

 だが翌朝、それは確信に変わった。右手を挙げると、鏡の男は一拍おいてから右手を挙げた。左手を振ると、鏡の男はゆっくりと左手を振り返した。

「なんだ、これは」

 声に出すと、鏡の男も口を動かした。ただしその唇は、まったく別の言葉を形作っているように見えた。

 友人の岸田に電話した。岸田は霊感が強いと自称しており、こういう話を好んだ。

「鏡を布で覆っておけ」と岸田は言った。「見るな。絶対に。」

 素直に従い、白いタオルで鏡を覆った。その夜は何事もなく眠れた。

 三日が過ぎた。タオルの端が、朝になると少しずつずれていた。自分が寝ぼけて触っているのだろうと思い、粘着テープで四隅を留めた。

 四日目の夜明け前、物音で目が覚めた。洗面所の方向だった。

 廊下に出ると、白いタオルが床に落ちていた。テープはきれいに剥がされ、端が丁寧に折りたたまれていた。

 鏡の前に立った。

 男がいた。

 紛れもなく自分の顔だったが、パジャマの柄が違った。男は微笑んでいた。自分は笑っていないのに。

 男がゆっくりと口を動かした。今度は読み取れた。

「やっと来た」

 悲鳴を上げようとした瞬間、鏡の向こうで岸田が男の肩を後ろから掴んだ。

 岸田が、いた。

 岸田は微笑んだまま、鏡の男をゆっくりと後方へ引き込んだ。男の顔が恐怖に歪んだ。手が伸びてきた。助けを求めるように。

 鏡の中が暗くなった。

 私はしばらく立ち尽くし、やがて自分の顔を確かめるために鏡を覗き込んだ。

 今朝から、鏡の中の私はきっかり一秒早く動く。

ホラー

鏡の中の親切

瀬川冬哉

2026-06-15

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鏡の中の親切 - ショートショート | 福神漬出版