額に埋め込まれた数字が、九十二から九十一に下がった瞬間、田村は担当官に呼び出された。

「田村さん、最近何かお悩みですか」

 担当官の額には、九十八という数字が青白く光っている。面談室の壁は柔らかな黄色で、空気には微量の鎮静剤が混じっていると噂で聞いた。

「悩みというか」田村は言葉を選んだ。「隣の席の島崎さんが、先月からいないんです。気になって」

 担当官は微笑んだ。完璧に設計された微笑みだった。

「島崎さんは幸福矯正センターへいらっしゃいました。指数が七十を切ってしまいましたので」

「矯正して、戻ってくるんですか」

「もちろんです。より高い指数で」

 田村は頷いた。担当官の言葉に嘘はないはずだった。センターを出た人々は、例外なく九十五以上の指数を額に灯して職場へ戻ってくる。笑顔も声も以前より明るい。

 ただ、田村には一つだけ気になることがあった。戻ってきた人々は、必ず利き手が変わっている。島崎は右利きだった。センターから戻った同僚たちは、全員が左利きだった。田村はその事実を、誰にも話したことがない。

「指数を上げるために、何かできることはありますか」田村は尋ねた。

「運動、睡眠、そして他者への奉仕です」担当官はパンフレットを差し出した。「特に奉仕は効果的です。田村さんには、来月から地域の幸福推進員をお願いしたいのですが」

「推進員というのは」

「指数が低下している市民を、早期に発見してご報告いただくお仕事です。島崎さんのように、手遅れになる前に」

 田村は書類にサインした。ペンを置いたとき、額の数字が九十三に戻っていた。

 三ヶ月後、田村の指数は九十六に達した。推進員の仕事は性に合っていた。朝の通勤電車で険しい顔をしている人、昼休みに一人で食事をしている人、窓の外をぼんやり見つめている人。田村はそういう人々を手帳に記録し、週次報告書として担当官に提出した。

 ある夕方、田村は鏡の前で気づいた。

 妻が台所で夕食の準備をしている音が聞こえた。結婚して八年になる。妻の指数は今朝、八十四だった。

 田村は手帳を開いた。

 妻の名前を書き終えたとき、額の数字が九十七に跳ね上がった。

ディストピア

幸福指数

宮瀬一灯

2026-06-14

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