補聴器を外すと、世界は静かになる。それだけではない——何かが、消える。
妻の亜紀が補聴器を買ってくれたのは三年前だ。難聴が進んだ私を見かねて、と彼女は言った。装着した瞬間、音が雪崩のように戻ってきた。車のエンジン音、鳥の声、そして亜紀の笑い声。世界はこんなに騒がしかったのか、と私は泣いた。
ただ、一つだけ気になることがあった。
補聴器をつけていると、亜紀がときどき口を動かさずに喋る。声だけが、どこからともなく聞こえてくる。「晩ごはん、何がいい?」「今日は疲れたね」。口元を見ると、閉じている。私が「今、何か言った?」と訊くと、彼女はきょとんとして首を振る。空耳だろう、と思っていた。
先月、補聴器のメーカーに持ち込んで点検してもらった。技術者の男が首をひねりながら言った。「異常はないですよ。ただ……」彼は少し間を置いた。「この機種、集音範囲が少し広めで。壁越しの音も拾うことがあります」
壁越し。
私たちのマンションは、築四十年の古い建物だ。壁は薄い。隣室の住人の声が漏れていたのだろう、と納得した。
それから私は気にしなくなった。
今夜、亜紀が珍しく早く眠った。私はソファで本を読んでいた。補聴器の中で、亜紀の声がした。「ねえ、あなた」
振り返ると、寝室のドアは閉まっている。声は続いた。「起こさないでね。もう少し、このまま」
壁越しに亜紀の声が届いているのだろう。寝言か、寝ぼけているのか。私は苦笑して本に目を戻した。
そのとき、亜紀の声ではない、低い男の声が補聴器に入ってきた。「わかった。もう少しだけ、待つよ」
私は立ち上がり、寝室のドアを開けた。亜紀は一人で、静かに目を閉じていた。穏やかな寝顔だった。
私は長い時間、その顔を見ていた。それからゆっくりと補聴器を外した。
音が消えた。声も消えた。
翌朝、亜紀が目を覚まさなかった。救急隊員が来て、心臓の異常だと言った。「昨夜のうちに、静かに……おそらくご本人は苦しまなかったと思います」
私はうなずき、補聴器をポケットの中で握りしめた。
あの男の声は、隣室から聞こえたのではなかった。壁の、もっと向こう側から。