鏡の中の自分が、零点三秒遅れて動くようになったのは、梅雨明けの朝のことだった。

 田辺は洗面台の前で歯ブラシを止め、目を細めた。気のせいだろうと思った。人間の知覚など、ひどく曖昧なものだ。

 だが翌日も、また翌日も、遅れは続いた。

 計ってみた。スマートフォンのカメラで自分と鏡を同時に撮影し、フレームを一枚ずつ送った。鏡像の動作は、確かに遅れていた。零点三秒。毎朝、きっかり零点三秒。

 田辺は考えた。光の屈折の問題か。脳の処理速度の問題か。しかし物理学がどうあれ、鏡は同時に反射するはずだ。遅れるなど、あり得ない。

 一週間後、遅れは零点五秒になっていた。

 田辺は妻の遥に打ち明けた。遥は鏡の前に立ち、手を振った。

「普通じゃない」と彼女は言った。「ちゃんと同時に動いてる」

「俺の鏡だけだ」

 遥は夫の顔をしばらく見つめた。心療内科を勧める目だと、田辺にはわかった。

 田辺は鏡を捨てた。新品を買った。しかし新しい鏡でも、遅れは続いた。今度は零点六秒。

 田辺は鏡を見るのをやめた。髭は剃らず、髪は適当に手で整えた。会社でも、トイレの鏡には背を向けた。同僚が訝しんだが、構わなかった。

 やがて遅れていることすら、忘れかけていた秋の夜。

 田辺は廊下を歩きながら、ふと壁の姿見に目をやった。

 鏡の中の自分が、こちらを見ていた。

 まだ、田辺が顔を向ける前から。

 田辺は硬直した。鏡像は微笑んでいた。田辺は笑っていない。田辺は一歩も動いていない。なのに鏡像はゆっくりと右手を上げ、田辺に向かって手を振った。

 田辺は叫び声をあげ、鏡から離れた。遥が飛び起きてきた。

「どうしたの」

「鏡が、鏡が俺より先に動いた」

 遥は姿見の前に立ち、しばらく黙って見つめた。それから静かに振り返った。

「先に動いてなんかいないわ」と彼女は言った。「ちゃんと同時よ」

 田辺はその顔を見た。

 遥の目が、零点三秒遅れて、瞬きをした。

ホラー

鏡の礼儀

朝倉澄夫

2026-06-03

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