燃えないゴミの日に、男は妻を捨てることにした。
もちろん比喩である。離婚届のことだ。
田所健吾は朝から書類を前に座っていた。妻の欄はすでに埋まっている。彼女が出て行く前日、台所のテーブルに置いていったものだ。筆圧が強く、名前のところだけ少し紙が波打っていた。
あとは自分が署名して、市役所に出すだけだった。
しかし健吾はなぜか、そのまま二週間が過ぎていた。
鉛筆を持つ。置く。コーヒーを飲む。また持つ。
隣の部屋では、引っ越し前に妻が梱包したままの段ボールが三箱、壁際に積んである。取りに来ると言っていたが、連絡はない。健吾はその箱を動かさなかった。邪魔だとも思わなかった。
ある朝、弟の慎二が突然やってきた。
「兄貴、飯食ったか」
「食ってない」
「だと思った」
慎二はスーパーの袋からパンを出して、勝手に皿に乗せた。健吾の向かいに座り、離婚届をちらりと見た。
「まだ出してないの」
「筆が進まない」
「ペンで書くんだよ」
健吾は笑わなかった。慎二も笑わなかった。
「義姉さんのこと、まだ好きなんだろ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何の話だよ」
健吾はパンをちぎった。答えなかった。
慎二が帰ったあと、健吾は段ボール箱を眺めた。三箱。一番上の箱には、妻が几帳面な字で「キッチン雑貨」と書いていた。その下に「本」。一番下は何も書いていなかった。
何が入っているんだろう、と思ったのは初めてだった。
健吾はゆっくり立ち上がり、一番下の箱に近づいた。テープはもう剥がれかけていた。迷わず開けた。
中には、写真が入っていた。
二人で行った旅行の写真。健吾が料理を失敗した日の写真。妻の誕生日の写真。妻の実家の犬の写真。健吾が覚えていないような場面の写真まであった。
なぜこれを持って行かなかったのか。
健吾は一枚一枚めくっていった。どの写真にも妻が笑っていた。どの写真にも健吾自身が笑っていた。
箱の底に、封筒があった。
名前は書いていない。健吾は封を開けた。
便箋一枚。短い文章だった。
読み終えて、健吾はしばらく動かなかった。
それからテーブルに戻り、離婚届を手に取った。
破った。
翌朝、健吾は妻に電話をかけた。呼び出し音が五回鳴った。
「……何」
「箱、開けた」
沈黙があった。
「捨てればよかったのに」と妻は言った。
「捨て方がわからなかった」と健吾は答えた。
また沈黙があった。今度は少し長かった。
「コーヒー、まだ飲んでる?」
「飲んでる」
「砂糖入れてないでしょ、どうせ」
健吾はカップを見た。確かに、入れていなかった。