その本は、三十年前に父が借りたものだった。
棚の奥から出てきたとき、裏表紙に貼られた図書館のラベルを見て、田中誠一は頭を抱えた。延滞料がいくらになるか、指が震えながら計算する気にもなれなかった。
父は五年前に他界していた。遺品整理をしてもなお、実家には段ボール箱が十数個残っていた。今日ようやく最後の一箱を開けたところだった。
「返しに行くしかないよな」
誰もいない部屋でつぶやいた。
本のタイトルは『時間の縫い目』。薄い文庫本で、背表紙は日焼けして飴色になっている。なぜ父がこんな本を借りたのか、見当もつかなかった。父は本を読む人間ではなかった。少なくとも、誠一の知っている父は。
ページをめくると、鉛筆の書き込みがあった。几帳面な、知らない字だった。父の筆跡ではない。誰かが傍線を引いた箇所に、こう添えてあった。「これが答えかもしれない」。
誠一は本を閉じた。
翌朝、駅の反対側にある市立図書館へ向かった。古い建物で、自動ドアがなく、重い引き戸を両手で開ける。受付には、白髪の女性職員が一人いた。
「あの、返却に来たんですが」
差し出すと、女性は本を受け取り、ラベルを確認した。表情一つ変えなかった。
「田中義雄様名義ですね」
「父のものです。三十年ほど……その、延滞料は」
「お調べします」
女性はカウンターの奥でキーボードを叩いた。誠一は待った。図書館の中は静かで、天井が高く、古紙のにおいがした。父が若いとき、ここへ来たのだろうか。誠一が生まれるより前のことだ。
「田中義雄様」と女性が言った。「こちらの記録では、この本は三十一年前の四月二日に返却済みとなっております」
誠一は一瞬、言葉を失った。
「返却済み?」
「はい。延滞もございません」
「でも、これが……」誠一は本を指差した。「実家から出てきたんです。父の荷物の中から」
女性は静かに言った。
「当館には同じ本が二冊ございます。一冊は三十一年前に返却いただいております。もう一冊は」
女性はキーボードを再び叩き、首をかしげた。
「もう一冊は、三十一年前の四月二日に、別の方に貸し出されたままになっております」
誠一は手の中の本を見た。
裏表紙のラベルに印字された貸出番号は、父の名前ではなかった。
鉛筆の書き込み。几帳面な、見知らぬ字。「これが答えかもしれない」。
父は、誰かの本を持ち帰ったのだ。そして、自分の本は返した。
では、父の本を持ち帰った人間は、今も気づいていないのだろうか。それとも。
「ありがとうございます」と誠一は言って、本を受け取った。
図書館を出て、春の光の中を歩きながら、誠一はもう一度だけページを開いた。
傍線の引かれたページの余白には、もう一行だけ書き込みがあった。誠一がさっき見落としていた一行が。
それは父の、見慣れた筆跡だった。