魔法使いは、代金を先に受け取らない。

 男が路地裏の扉を叩いたのは、妻が死んで三日目の夜だった。

「妻を生き返らせてほしい」

 老いた魔法使いは男の顔を眺め、それから小さな天秤を卓上に置いた。片方の皿に羽根を一枚乗せる。

「代金は、あなたが最も大切にしているものです」

 男は即答した。

「構わない」

 魔法使いの指が静かに動いた。

 翌朝、妻は台所に立っていた。男は泣きながら彼女を抱きしめた。温かかった。息があった。昨日まで冷たかった手が、今は湯気の立つ鍋を握っていた。

 一週間が過ぎた。男は気づいていなかった。

 妻がいつも窓の外を見ていることに。

 二週間が過ぎた。男は気づいていなかった。

 妻が夜、一度も眠らないことに。

 ある夜、男が水を飲みに起きると、妻は暗い部屋の中央に座って天井を見上げていた。

「何をしている」

「待っています」

「何を」

 妻は男を見た。その目に、感情というものがなかった。

「あなたが約束を守るのを」

 男の背筋が冷えた。

「約束? 俺は何も——」

「魔法使いが言っていました」妻の声は穏やかだった。「あなたが最も大切にしているものを、代金として受け取ると」

 男は首を振った。それでいい、と思っていた。妻こそが最も大切なものだったから、妻を失った自分には、もう何も残っていないと思っていたから。

「だから俺は構わないと——」

「でも」と妻は遮った。「魔法使いの天秤は、あなたの言葉ではなく、あなたの心を量るのです」

 沈黙が部屋に満ちた。

 男はゆっくりと妻の目を見た。

 妻も、静かに男を見返した。

 男の口が開いた。閉じた。また開いた。

「お前は……今、誰だ」

 妻は微笑んだ。三年間、ずっと見てきた笑顔だった。

「私はあなたの妻です」

 それだけを言って、妻は再び天井を見上げた。

 男は夜明けまで眠れなかった。自分が何を最も大切にしていたのか、ずっと考え続けた。妻だと信じていた。本当に、そう信じていた。

 だが天秤は揺れなかった。

 朝になって男は路地裏へ走った。扉を叩いた。叩き続けた。

 老いた魔法使いが顔を出した。

「代金の品はもう受け取りました」と魔法使いは言った。「あなたの妻が、毎晩届けてくれています」

 男は声を失った。

「何を……何を持って行っているんだ」

 魔法使いは穏やかに答えた。

「あなたの妻も、同じことを毎晩尋ねます。届けているのは自分なのに、自分でもわからないと言って」

 男は家へ走って戻った。

 妻は台所にいた。いつもと変わらなかった。

 ただ、その朝から、妻は男の名前を呼ばなくなった。

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願いの値段

澄川栞

2026-05-21

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