遺言書には、財産の全てを「最も長く私を愛してくれた者」に譲ると書いてあった。
老人・蛭田常三郎が死んだのは、八月の終わりだった。妻も子もなく、甥の健司と姪の由紀子だけが葬儀に並んだ。ふたりは十年来、口もきかない仲だった。
弁護士の阿部が遺言書を読み上げた瞬間、健司と由紀子は同時に立ち上がった。
「私です」と健司が言った。「叔父は毎年、私の誕生日を覚えていてくれた。妻を亡くした年も、真っ先に連絡をくれたのは叔父でした」
「あなたが来たのは年に一度でしょう」由紀子は冷ややかに言った。「私は月に二度は顔を出した。叔父の好きな羊羹を持って。叔父が最後に笑ったのは、私と話していたときです」
健司は鼻で笑った。「羊羹は建前だ。叔父の遺産目当てに通ったくせに」
「あなたに言われたくない」
阿部弁護士は静かにふたりを見ていた。
健司が切り出した。「叔父は昔、私に言ったんだ。『お前だけが本当の家族だ』と。十五年前、私が会社を潰しかけたとき、叔父は無言で金を貸してくれた」
由紀子の顔色が変わった。「……いくら?」
「関係ない」
「三百万?」
健司は黙った。
「私には五百万でした」由紀子は言った。「離婚した年。叔父は何も聞かずに振り込んできた。だから私は——」
彼女はそこで止まった。部屋に沈黙が落ちた。
ふたりは互いの顔を見た。初めて、相手の輪郭がぼやけて見えた。
阿部が静かに口を開いた。「おふたりにお伝えすることがあります」
彼は鞄からもう一通、封筒を取り出した。
「蛭田さんから預かった、補足の手紙です」
健司が受け取り、由紀子と並んで読んだ。
便箋一枚。老人の丸い字で、こう書いてあった。
『健司へ。由紀子へ。ふたりとも同じ日に、同じ言葉をくれた。「叔父さんだけが家族です」と。だから財産はふたりで半分ずつにした。ただし、条件がある。この手紙を一緒に読んだときだけ有効とする。もしどちらか一方しか来なかったなら、全額を猫の保護団体に寄付するよう阿部君に頼んである。仲良くしなさい。——常三郎』
長い沈黙の後、健司が低く笑い出した。由紀子も続いた。
阿部はただ、手を膝の上に置いていた。
彼の胸のポケットには、もう一通、封筒があった。蛭田から十年前に預かった手紙で、こう書いてある。『ふたりが同じ日に来たら、これを渡せ』
阿部はそれを、今日まで誰にも見せていない。