刑務所の中で、田中は完璧な人間だった。
起床ラッパの三秒前に目を覚まし、布団の角を定規で測ったように折る。食事は残さず、作業は黙々とこなし、他の受刑者とのトラブルはゼロ。担当刑務官の安田は、十八年のキャリアの中でこれほど手のかからない囚人を見たことがなかった。
「田中、お前は模範囚ってやつだ」
安田がそう言うと、田中は薄く笑った。目だけが笑っていなかったが、安田は気にしなかった。
田中の罪状は詐欺だった。被害者は四十七名、被害総額は二億円超。しかし本人は終始、穏やかだった。法廷でも、ここでも。怒りも後悔も、表情に出たためしがない。
仮釈放の審査が近づいた頃、安田は田中の房で奇妙なものを見つけた。小さなノートだった。中には細かい数字と記号が、几帳面な字で並んでいた。
「なんだ、これは」
「日記です」と田中は答えた。「書くことで、気持ちが整理できる性格なので」
安田はページをめくった。確かに日付がある。だが内容は暗号のようで意味がわからなかった。没収すべきか迷ったが、規則に触れるものは何もない。安田はノートを返した。
田中は仮釈放が認められた。
出所の朝、安田は門の前で田中を見送った。田中は一度だけ振り返り、深々と頭を下げた。礼儀正しい男だった。
その夜、安田は自宅のポストに封筒を見つけた。差出人の名はなかった。中には一枚の紙が入っていた。
紙には、二つのことが書かれていた。
一つ目。あのノートは日記ではなく、被害者四十七名の口座番号と暗証番号だった。三年かけて、面会に来た共犯者に少しずつ書き写させた。「書くことで気持ちが整理できる」というのは本当だった。ただ整理したのは金の在処だった。
二つ目。あなたの娘さんは、来週から中学校ですね。通学路を覚えました。
安田は窓の外を見た。暗い道路に、人影はなかった。
翌朝、田中の仮釈放を認めた審査記録を読み直したとき、安田は初めて気づいた。審査委員の一人の氏名を。
安田の妻の旧姓だった。