毎年十一月の第三木曜日、国民は一斉に泣く。
泣けない者は、翌朝いなくなる。
田中誠二は今年で四十二回目の「感謝の日」を迎えた。窓の外では、近所の主婦が玄関先に立ち、ハンカチで目を押さえている。道路を挟んだ向かいの老人も、肩を震わせている。完璧な光景だ、と誠二は思った。
居間のソファに腰を下ろし、誠二は国営放送を点けた。画面には、今年も粛々とした音楽とともに、戦没者の映像が流れている。「祖国のために散った尊い命を、国民全員で悼みましょう」というナレーションが、毎年同じ抑揚で流れる。
隣に座った妻の芳枝が、すでに涙を流していた。目が赤い。頬が濡れている。
「今年も、ちゃんと泣けそう?」と芳枝が小声で言った。
「大丈夫だ」と誠二は答えた。
だが、正直に言えば、大丈夫ではなかった。四十二年間、一度も欠かさず泣いてきた。しかし今年は、何かが違った。映像を見ても、音楽を聴いても、目の奥が乾いたままだった。
芳枝がそっと誠二の手を握った。「思い出せばいいのよ。お父さんのこと、お母さんのこと」
誠二は目を閉じた。両親の顔を思い浮かべた。二人とも十年前に他界している。葬儀の日、確かに泣いた。あの感覚を、今ここに引き戻せばいい。
だが、涙は来なかった。
時計を見た。午後二時十五分。規定の「感謝の時間」は、三時までだ。四十五分しかない。
冷や汗が背中を伝った。
「芳枝」と誠二は言った。「目薬、どこだっけ」
芳枝の手が、ぴたりと止まった。
「……それは、ダメよ」
「わかってる。でも、もしもの時のために」
「誠二さん」芳枝の声が低くなった。「去年、隣の鈴木さんが目薬を使ったの、係員に見つかったでしょう。翌朝、荷物だけ残って」
誠二は黙った。
テレビの音楽が、ひときわ大きくなった。戦場の映像に切り替わる。泥濘の中で倒れる兵士たち。瓦礫の下で泣く子供たち。製作者の意図が透けて見える、計算された悲劇の羅列だった。
その瞬間、誠二の中で何かが冷えた。
泣けない理由が、わかった気がした。
自分は今、泣かなければ死ぬから泣こうとしている。悲しいから泣くのではない。それは涙ではなく、ただの生存反応だ。そのことに気づいてしまった今、もう泣けない。
時計の針が動く。
芳枝が誠二の肩に顔を埋め、声を殺して泣いていた。その背中が小刻みに揺れている。
「ねえ、芳枝」と誠二は静かに言った。「お前は、なんで泣けるんだ」
芳枝は顔を上げなかった。
しばらく間があって、くぐもった声が聞こえた。
「あなたのことを、考えているの」
三時の時報が鳴った。
翌朝、係員が回収したのは、一人分の荷物だった。