男が死んだのは、私が隣の席に座っていた夜だった。
深夜の特急列車。乗客は私と、通路を挟んだ窓側の男だけだった。男は五十がらみで、グレーのスーツに不釣り合いな安物の腕時計をしていた。眠っているのか、ずっと目を閉じていた。
私は文庫本を開いたまま、男を観察していた。職業病というやつだ。刑事を十八年やると、他人を見る目が変わる。
列車が鉄橋を渡るとき、男が目を開けた。
「あんた、見てたね」と男は言った。
「本を読んでいた」
「嘘だ。ページが三十分変わっていない」
私は文庫本を閉じた。男の目は静かだった。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、何かを測るような目だった。
「教えてやろう」と男は続けた。「この列車に、殺し屋が乗っている」
私は黙っていた。
「ターゲットは俺だ。依頼したのは会社の共同経営者。俺が持っている証拠書類を奪うためだ」男は膝の上の黒いブリーフケースを一瞥した。「あんたが刑事なら、信じるだろう」
「どうして私が刑事だとわかる」
「靴だ。どんなにいい服を着ていても、刑事の靴は歩き潰れている」
私は自分の靴を見た。男の言う通りだった。
「次の停車駅まで、あと十二分ある」男は言った。「頼む」
私は車両を見回した。他に乗客はいない。車掌は奥の車両にいるはずだった。
「証拠書類を見せてもらえるか」
男はブリーフケースの留め金に手をかけた。その瞬間、照明が一瞬揺れた。トンネルに入ったのだ。
暗闇の中で、鈍い音がした。
トンネルを抜けると、男は座ったまま動かなくなっていた。首に細い紐の痕があった。私は立ち上がり、車両の前後を確認した。誰もいない。ブリーフケースも消えていた。
私は座席に戻り、スマートフォンを取り出した。本部に連絡しなければならない。画面を開いたとき、着信履歴が目に入った。三時間前、見知らぬ番号から一件。
発信者の登録名は「依頼人」とあった。
私はその番号に見覚えがあった。男のスーツの胸ポケットから、わずかにはみ出していた名刺。暗くて読めなかったが、確かに同じ番号が印刷されていた。
列車が速度を落とし始めた。次の駅が近い。
私は靴底を見た。十八年分の、歩き潰れた靴底を。
刑事の靴ではない。これは、ずっと逃げてきた人間の靴だ。