毎朝九時、田中は赤ペンを手に取る。
出版社の校正部で二十年。誤字脱字を見つけることに関して、彼の右に出る者はいない。
「おはようございます」
新人の山田が挨拶をする。入社三ヶ月、まだ仕事に慣れていない。
「今日もよろしくお願いします」
田中は軽く頷いた。机の上には、今日校正すべき原稿が積まれている。人気作家の新刊だ。
赤ペンが紙の上を滑る。「彼女わ美しかった」の「わ」に斜線を引き、「は」と訂正する。「間違いない」の「間」の字が「問」になっているのも見逃さない。
昼休み、山田が声をかけてきた。
「田中さん、すごいですね。どんな間違いでも見つけちゃう」
「慣れだよ」
田中は弁当を開けながら答えた。妻の手作りだ。今日はハンバーグが入っている。
午後も校正作業が続く。田中の目は疲れを知らない。活字の海を泳ぎ続ける。
「あの、田中さん」
山田が恐る恐る話しかけてきた。
「何だ」
「これ、どう思いますか」
山田が差し出したのは、田中が午前中に校正した原稿だった。ページの端に、田中の書き込みがある。
『主人公の名前「佐藤」→「佐東」に統一』
田中は首を振った。
「それは間違いだ。原作者が佐藤と書いているなら、佐藤のままでいい」
「でも、ここの箇所では確かに佐東になってるんです」
山田が別のページを開く。そこには確かに「佐東」の文字があった。
田中は眉をひそめた。自分が見落とすはずがない。
その時、編集長の声が響いた。
「田中さん、ちょっと」
編集長の机の前に立つと、重い口調で言われた。
「昨日の件、覚えてますか」
田中は首を振る。
「田中さんが校正した雑誌、印刷後に大量の誤字が見つかったんです。クレームが殺到してます」
そんなはずはない、と田中は思った。
「もう一度、病院に行ってもらえませんか」
田中の手が震えた。赤ペンが机に落ちる音がした。